先週行った妙蓮寺に、昨日、再訪問しました。
この妙蓮寺、今、特別拝観で長谷川等伯とその一派の襖絵が公開されています。
しかも!当時、はめられていたであろうその場所に!
つまり…
普段、襖絵の展示といえば、ガラス張りの中で、管理された照明にあてられて展示されているのが一般的。
それが、今回の特別拝観では、本当に襖として配置されているので、まずガラス張りではなく、しかもめちゃくちゃ近くまで寄れて、しかもしかも座って、当時の人と同じ目線で見ることができるのです!
更には、自然光でのみの展示になっているので、照明がいっさいついていません!
本当に素晴らしい貴重な体験ができる特別拝観となっているのですが、逆にそれが故に、先週の雨の日は本当に暗くてほぼ何も見えず…
なので、昨日、改めて訪問したのでした。
また先週行った時に係の方が、15時くらいの夕方が一番きれい、と言われていたので、その時間にめがけて行くことに。
と思いつつ…昨日の予報も「晴ときどき曇」。せっかく行ってまた曇りでは悲しいので、まだ明るかった14時に行ってみました。
入ってみて…圧倒しましたよ…!この明るさよ…!雨の日と、全然違う!!!
どうやら15時以降と言われていたのが、太陽が沈むと、部屋に光が入ってくる角度が、より直接的になるらしく。
とはいえ、14時過ぎくらいでも十分明るい!
さらにしげしげ見ているうちに5分経ち、10分経ち…となると、どんどん明るくなる!
結局、16時まで居座り、刻刻と明るくなっていく様を見たのでした。
こんなにも長谷川等伯の金碧濃彩の襖絵が間近で、しかも自然光で見られるなんて、これから先、あるかないか…
21年ぶりの公開でこの状態。
是非行ってほしい。
真剣にめちゃくちゃおすすめです。
3月31日までという、あと本当に少しなんですが。
で、タイトルにある「金地に思うこと」なのですが。
ここから自分自身へのメモも兼ねて、この妙蓮寺の「松桜図」などを見て分かったことです。
金地というと、”絢爛豪華”という言葉に踊らされて、めちゃくちゃピカピカしたものを思い浮かべていました。
例えるならば、背景にライトボックス的なものがあって、ピッカーーー!!!と光っている、みたいな。
でも、全然違うんです。って、冷静に考えると違うのは分かるけれども、実際に見てみるまで想像でしか分からないというか…
金は基本的に自分からは光を発しません。照り返しによる光なのです。
だからといって鏡のような照り返しでもない。
そしてギラギラしたメタリックな照り返しでもない。
暖かく、ふんわりとした照り返しなのです。
それでいてマットな照り返しでもあります。
多分、そこが金泥と大きな違いなのでしょう。
そう、金地は金箔が均等的に貼り付けられているので、光のゆらめきや、そこからくるきらめき、というものがないのです。
イメージ図、こんな感じ↓
妙蓮寺の「松桜図」は右側が損傷が激しく、金の剥落もあるので、金のゆらぎを感じますが、剥落の少ない左側が本来、長谷川等伯達が狙っていた輝きなのでしょう。
そう考えると、”金地を貼ることでマットな輝きを出すことになるので、奥行きをなくし、平面的な作画になる”というのは正しい見地かと思います。
が、それも100%正しくもない。
というのが、実際に見てみて、何せ長いので歩いて見てみるわけですが、非常に不思議なことが起きるのです。
それは、「自分が正面と見ているところが一番輝く」ということです。
つまり歩くにつれて、一番輝くところが変わっていくんですね。
多分、光が乱射していないのかな…と科学知識0の素人考えで思うのですが…
つまり言いたいのが、輝き方が均一なマットな金地ですが、歩くにつれて一番輝くところが違う、という揺らぎが発生するのです。いわば、輝きに動きがあると言えるでしょう。
それに加えて、前述通り、太陽光の状況によって、まったく明るさも変わる。
この輝きの不均一性が、金地の最大の魅力なのでしょう。
これが夜になり、蝋燭の光となると、さらに揺らぎがあって、谷崎潤一郎が描く”陰翳礼讃”の世界となると、金地の奥深さがより感じられます。
残念ながら、蛍光灯の光を知らない当時の人がどこまで「明るい」と感じていたのかは計り知れないけれども、天気によって違う様、一日の中でも刻一刻と変わっていく様を楽しんでいたのは、今と違わないのではないかな…と夢想してしまいます。
こんな発見ができたのも、自然光で、本来あるべきところにはめられた襖絵を見たからこそ。
何度も言いますが、本当におススメです!
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