この頃読んだ本3冊続けて『失われた時を求めて』が出てきた。こりゃ読むしかないのか!?:中条省平 「文章読本」


「書評家<狐>の読書遺産」で「青白い炎」とペアになっていたのが中条省平の「文章読本」だった。
難解な「青白い炎」と並行して読むと、なんと楽に感じたことか!
というか、普通に単品で読んだとしても、面白くさくさく読めた本だった。
本書は、森鴎外から大江健三郎まで、様々な作家の作品より一部を抜粋しながら、この作家が巨匠たるゆえん、この作家の文章の素晴らしさを、読み解く形で説明している本だった。
例えば梶井基次郎の「冬の蠅」を抜粋してこのような解説をしている;

「やっと十時頃渓向うの山に堰きとめられていた日光が閃々と私の窓を射はじめる」
「やっと十時頃」という副詞句は、その直後の「堰きとめられていた」という動詞ではなく、後のほうの「射はじめる」という動詞に掛かる言葉ですから、文法的には、「日光が」の後に置かれもよいのですが、「やっと」がいきなり文頭に置かれることで、日光の出現を待ち切れない主人公の期待の高まりが切迫感をもって定着されていきます。
 しかし、それ以上にみごとなのは、「渓向うの山に堰きとめられていた日光」という表現です。「堰きとめる」は、本来、水の流れを妨げるという意味ですから、この表現だけで、日光が湖の水のように満々と湛えられたイメージを喚起し、したがって、日光の出現は、堰から解き放たれた水流のイメージのなかに溶かしこまれるのです。「堰きとめる」というさりげない言葉の使いかたひとつで、日光に水という物質の充実感をあたえているところにほとほと感心させられます。

(p44-45)

ちょっと引用が長くなってしまったが、万事がこの調子で、懇切丁寧に説明されている。
そしてただ説明されるだけでは眠くなってしまうところだが、引用文の最後の“ほとほと感心させられます”からも見受けられる通り、作者の文学への愛情みたいのがあふれ出ていて、全然飽きることがない。
しかも、優れた作品が、正しい文章の書き方に乗っ取って書かれているわけではないことも明記している。
<狐>も指摘しているように、内田百の文章を“ぞろっぺえな、だらしない印象”(p108)と語っており、でもその後に続く解説にて、この印象こそが内田百の魅力に繋がる、と語っている。
(そしてついこの間、内田百を読んだ私としては、「そう!その通り!」と膝を打ちたい気分になる)

小・中・高と学校で、国語の時間にこのような文章解説をされた気がするが、それとは一風違って、こんな風に図解するかのような説明の仕方は、非常に面白いと思った。
また、そうやって分かっているからだと思うが、中条氏が文章説明するのに当たって説明する、引用文元の作品のあらすじがまたうまい。すごく読みたくさせる。

一応、本書で扱っている作品を羅列してみる(<>は目次のタイトル/★は私が特に読みたいと思った本);
<行動を記述する> 森鴎外『山椒大夫』
<心象を描写する> 夏目漱石『それから』★
<比喩を使う> 佐藤春夫『田園の憂鬱』
<写生する> 梶井基次郎『冬の蠅』★
<状況を説明する> 泉鏡花『風流線』★
<日本の特性を語りに活用する> 井伏鱒二『本日休診』★
<方言で語る> 野坂昭如『エロ事師たち』★
<若者の口調を使う> 橋本治『桃尻娘』★
<相手に語りかける> 江戸川乱歩『人間椅子』
<ダイアローグを変形する> 久生十蘭『姦』★
<日記に仕立てる> 谷崎潤一郎『瘋癲老人日記』★(読みたいが覚悟が必要かも)
<会話を構成する> 大岡昇平『野火』★
<擬態語を使う> 内田百『東京日記』★(既読分はほんの一部だったみたいなので)
<視点を設定する> 北杜夫『どくとるマンボウ航海記』★
<語らずにおく> 永井荷風『腕くらべ』★
<否定する> 色川武大『怪しい来客簿』★
<推論する> 阿部公房『燃えつきた地図』★
<列挙する> 芥川龍之介『戯作三昧』
<メタ小説を書く> 島尾敏雄『夢の中での日常』
<政治を寓話化する> 大江健三郎『奇妙な仕事』
<書簡体を用いる> 夢野久作『瓶詰地獄』★
<小説のからくりを明かす> 志賀直哉『小僧の神様』
ほぼ★。というか、全然本を読めてないなーというのが正直なところだったり。
読書の秋だ!


中条省平 「文章読本」 2003年 中央公論新社

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