思い出した頃に「書評家<狐>の読書遺産」より。
今回は「青白い炎」と「文章読本」のコンビ。
まず手をつけたのが太い方の「青白い炎」。
しかし、なんというか。この「青白い炎」を読むのは、なんとも苦労を強いられたことよ!
まず、形態が実験的というのか、普通の小説とは違うということ。
私の非常に苦手な詩が大事な役目を果たしているということ。
翻訳ものであること(そして決して大層うまい訳とはいえない)。
この3つが、読み進むのを困難にしていたのだった。
本題に入ると、この本は単純に『小説』といえない。
なにせ目次のページをめくると
・前書き
・青白い炎 四つの詩篇より成る詩
・注釈
・索引
となっているのだ。
前書きを読むと、今は亡きジョン・シェイド(架空の詩人)の遺作について、その友人のキンボート教授がきちんと注釈をつけて発表しようとしている、という体裁がとられていることが分かる。
そして、その前書きでキンボートがお願いしている通り、本編である詩と、注釈を合わせて読んでいくと、なんとまぁ不思議なことになっていくのだ。
まずこの注釈ってば、まったくもって“注釈”ではない。
詩の単語や文から脱線させて、違う物語が紡がれていく。
詩自体は、シェイドの自伝的詩になっている。
彼の娘が殺されたようで、絶えず死についてが底辺になっているような詩となっている。
ちなみに私は詩のこの部分が好きだった;
Time means growth,
(p108-9)
And growth means nothing in Elysian life.
Fondling changelss child, the flax-haired wife
Grieves on the bring of a remembered pond
Full of a dreamy sky.
(時間は成長を意味するが、
天国の生活では成長は何の意味もない。
少しも変わらぬ子供を可愛がりながら、亜麻色の髪毛の細君は
夢幻的な空をいっぱいに映した思い出のなかの池の
縁で悲嘆にくれている。)
抜き出してみると、魅力が分からないかもしれないが、読んだときに、突然ふっと空間が上に向かって無限に広がった感じがしたのだ。
(というかこれからも分かるように、訳がいまいちすぎる)
それはさておき。
注釈の方は、キンボートの故郷ゼンブラの最後の王様について書かれている。
もちろん、シェイドとの思い出や、詩の世間一般的な“注釈”も書かれているけれども、ほとんどがその王様について。
その王様は男色家で、革命がおきてから閉じ込められているのだが、脱走してしまう。
その脱走した王様を革命派の手先によって送り込まれた暗殺者が追いかける。
といった話が注釈に書かれている。
そして読んでいくうちに、この王様こそがキンボートらしいのだ。
そしてそして最後には、シェイドの物語と、王様の物語が見事にかち合って終わる。
と最後の、カチリとはまる感じは大変面白かったのだが、いかんせん、このキンボートの性格が悪いような気がしてしょうがない。
シェイドの周りの人物全てを悪者扱いするのには、半ばうんざりとさせられた。
そして、最後のカチリ具合に満足しつつ、訳者のあとがきを読んだら、“キンボートは狂人”“ゼンブラ云々はキンボートの妄想”なることが書かれており唖然。
超単純な読者である私は、ゼンブラが実在しており(もちろんこの世の中には存在していないのは分かっている。小説の中での実在)、時折感じるキンボートの奇妙さは王様であるからだと思っていたのに!
え?これは、普通の人が読んだら分かることなの!?私はそれまでに鈍いの!?
とそのことばかりが気がかりになって終わった一冊だった。
でも不思議と中身を記憶に残っていて、再読してみようと思うのも事実。今度は原書で読んでみるか。
ウラジーミル・ナボコフ 「青白い炎」 富士川義之・訳 2003年 筑摩書店
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