上巻では「物語の進行がたるい」的なことを書いてしまいましたが、前言撤回させて頂きとおございます。
「孤宿の人」、面白かった!!!
というか下巻を読み進めるうちに、この本のテーマみたいなものがようやく分かってきた。物語の進行がたるいというより、自分のおつむの理解の進行が遅かっただけですな。わはは、と笑ってごまかす。
この本のテーマ、というか私が感じ取ったテーマは、鬼とはいかなるものかということ。うーん なんだかうまく表現できませんな。
私は高田崇史のQEDシリーズも好きなのだが、それはストーリーラインが好きというより、歴史上の物事は「実は○○だった」と解かれているのが好きだ。例えば「節分で追い出される鬼は、朝廷の反逆者であったその土地の者で、たどってゆけば私達の祖先である(ちょっとうろ覚え)」とか、私達が“災い”と思っていることは「騙り」であって、その裏には政治的な物事が深く関わっている、というのが面白かったのだ。
でもQEDシリーズでは現代が舞台だし、身近な祭りなどが題材になっているためか、「へー」で終わってしまっていた。それに対して、「弧宿の人」はその「騙り」になっていく過程を、当事者の目線で語っている。
本書で「鬼」となるのは、江戸からのお預かりしている罪人・加賀さま。
加賀さまが幽閉されている涸滝の屋敷もいわくつきで、というのは城代の浅木家にて15年前、流行り病が発生して、その病人を閉じ込めていた場所だったのだ。
夏場の病、雷という天災から、琴江殺しという人災まで全ての凶事が加賀さまのせいになってしまった。
しかも15年前の浅木家の疫病も、実は跡目争いの末の毒殺で、今回もそれが勃発している。それだけではなく肝心の浅木家当主は、現丸海藩主の畠山家を狙っている始末。
そしてそれを全て「加賀さま」という存在を盾に遂行されているのだ。つまり、舷洲先生に言わせれば;
いたずらな恐怖。我執。欲や憎しみ。数えておっしゃる。
p45
「加賀殿のようなお方は、周囲にいる者どもが日頃は押し隠しているそういう黒いものを浮き上がらせる。加賀殿の毒気がどうだの、魅入られておかしくなるのだというのは、何のことはない、その者がもともと内に隠し持っていたものを、加賀殿を口実に外へ出すことができるようになるからこそ起きることだ。火元は己れだ。闇は外にはありません。ましてや加賀殿が運んでこられたわけではない。」
となるわけだ。
そういう事実を宇佐や渡部の目線から知ると同時に、加賀さまの人柄はほうから知ることとなる。
ひょんな事件から(これは上巻の話)、加賀さまとの面会が日課となったほう。ついには加賀さまより手習い・そろばんの手ほどきまで受ける。そこから感じるのは加賀さま良い人!というもののみ。「阿呆のほう」という名の謂れを持つほうに、新しい漢字を与えるところからもそれが伺える。
しかも! 井上家子息の啓一郎は父の舷州より加賀さまの事件の真相を聞くのだが。
加賀さまは全然「鬼」ではなかったのだ!!
端的に言えば、妻と子供の無理心中であったし、それを隠蔽して自分が罪を被り、切腹もしないで「不気味な存在」になることによって、ある人たちに恩返しをしていたのだった。
それだけではなく、“加賀さまを本当に「鬼」にしてゴタゴタを一気に解決しよう”という丸海藩上層部の計画に同意して、自らの命を差し出すのだ!!!
そんなわけで加賀さまに思いっきり肩入れした私は、最後は滂沱の涙。しかもほうが加賀さまを純真に慕う様も、健気でまた泣ける。
とここまで手放しで褒めてから、最後にちょっと文句を。
いくら江戸時代後期だからといって、先進的な考えを持っている人、ということで民主主義的社会を夢見る、という設定はいかがなものか、時々、江戸時代の話を読んでいて出てくるけど、江戸時代の世界にどっぷりつかって読んでいるのに、突然「江戸時代ではこういう風習・考え方がはびこってるけど、この後幕末があって明治維新があって、今はこうだよね」的なことを彷彿させることを書いて欲しくない。興ざめというか、登場人物が「いつかこんな不公平なことがなくなって、身分とかなくなればいいのに」的な発言したって「はいはい。あと100年くらいでなりますよ」と思うしかないではないか!!
と、文句おばさんはここまで。
フォローするわけではないが、本当に面白かったデス。
(宮部みゆき 「孤宿の人 (下)」 2005年 新人物往来社)
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