多分書評だか、誰々さん(有名人かなんか)のオススメの本ということでメモをしていた「綺譚集」by津原泰水(やすみ)。でもそこでの紹介文をまったく記憶していないので、その時の私が何を基準に「おもしろそう」と思ってメモをしたのか謎で、つまり「なんでこんな本をメモったんだろう」というくらい私の趣味じゃない本だったのでした。
短編集で、収録作品は;
- 天使解体
- サイレン
- 夜のジャミラ
- 赤假面傅(せっかめんでん)
- 玄い森の底から
- アクアポリス
- 脛骨
- 聖戦の記録
- 黄昏抜歯
- 約束
- 安珠の水
- アルバトロス
- 古傷と太陽
- ドービニィの庭で
- 隣のマキノさん
でした。
耽美小説というのか、幻想小説というのか、とにかく雑食な私としては、機会があったら読むけれども、自分からは読まないという類でした。実際、読んでるときは、さっさと終わってくれとばかりに、だーっと速読の勢いだったし。
大体こういう類の本って、やたらと旧字体を使ってみたり、死体とか腐敗物をむやみにきれいに書いてみたりとか、神経症の主人公だったりとか・・・そういうお決まりのものが出てきて、いかにも“これは耽美/幻想小説です!!”という感じがどうも苦手なのです。
と文句をたらたら書いたところで、しばらく日にちが経ってしまったのですが。
不思議なもんです。その間に読み終わった本とか読みかけの本があるのに、なぜか時々ふと思いだすのはこの短編集の話。
事故でお腹がさかれちゃった女の子の腹をもっと破るなんて最低すぎる(天使解体)だとか、美しい物/者にキスをして美のエッセンスを吸い取って、キャンバスにその美を投影する話(赤假面傅)とか、それ(玄い森の底から)を読んでやっぱり書道って面白そうと思ったこととか、交通事故にあって右足を亡くした知り合いの、その右足を事故現場で見つけてずっと持っておく話(脛骨)、結局主人公は犬なの?意味分からなすぎる、てかヒロスエリョウコとかそういうのって狙いすぎだろ(聖戦の記録)!とか、歯が痛くて痛くて、というくだりとか、その話のとりとめなさが夢っぽかったな(黄昏抜歯)とか、ぼつんぼつんと思い出すのでした。
記憶に残る本=良い本/自分好みの本、とは思わないけれども、あまり好きではないと言いつつも、少なからずとも私に影響を与えた本なのでしょう。
妙に「脛骨」が記憶に残っているので一節を;
「流されちゃったのかもしれない、あたしの屍体」
p107-108
「屍体とはいわないんじゃないの」わたしは無遠慮にいい返した。「多恵さんはここで、まだちゃんと生きてるんだから」
「だって屍体じゃない。ほかになんていうの。善福寺川のよどみでぷかぷか上下しながら、むくんで、腐って、どろどろした汚い汁を滲みださせてるものが、この生きてる左脚と同じものだっていうの…(中略)…いまもはっきりと右脚の感覚があるの。足首を伸ばしたり、指を開いたり閉じたり、たしかにできるのよ。でもその足首も指このベッドにはない。じゃああたしが動かしてるのは、川面に浮かんだその腐ったものなのかしら。それともそこから抜けだした脚の亡霊なのかしら。…(中略)…」
…(中略)…
人体から切り離されて朽ちていく右脚というものを、ただマネキンのそれのように物体として捉えるべきなのか、それともあの世のものとして拝むべきなのか、わたしにもまるで判断がつかなかった。切った髪ならそのうち存在を忘れてしまうし、時間が経てばまた同じ長さに伸びてくる。しかし脚となるとそうはいかない。
物理的には死んでいる右脚だが、それが生きている多恵に帰属しているのは間違いない。感情のうえのみならず、たぶん法的にもそういうことになるのだろう。彼女はいま生きながらにして、死んだ肉体を所有しているのだ。
もう一節。今大変興味のある書道について;
もしそちらに、意義のあるほうへと筆が引きずられれば、書はたやすく堕落する。岡本太郎の漢字をモチーフにした連作がどうにもいただけないのは、書の伝統美から逃れようとして意義におもねってしまっているからだ。…(中略)…
p78
かといって意義から脱すれば、それはもはや書ではない。書というのは読まれる、読めるものであり、そのいみでは羅針盤のように明快なのだ。方角を定められずにぐるぐると廻りつづける羅針盤を、進化した羅針盤と重宝がる人はありまい。
(津原泰水 「綺譚集」 2004年 集英社)
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