この間友人に、「そういえば藤原伊織って亡くなったよね」と言われたのを、図書館にて彼の本を見つけたときに、ふと思い出したので思わず借りてきてしまった一冊。
江戸川乱歩賞と直木賞のダブル受賞を果たした「テロリストのパラソル」を読んだのははるか昔すぎて、話の内容は覚えていなかったけれども、とても面白かったという記憶だけは有。しかも、どこか哀切を感じる本だったのもぼんやりと覚えていました。
そんな印象しか持っていないまま読み始めた「ひまわりの祝祭」。
読んでいる途中に、すごくこの話の流れというか、雰囲気というか、何かに似ているよな~と前半に思い続けていたのですが・・・ そこでふと思い出しました。
他の作家さんと比べるのはあんまり良くないと思うのですが、なんとなく村上春樹に似ている気がしました。主人公の男の人がちょっと奇妙な人で、本人の意志とはうらはらに事件に巻き込まれ、なんだか主人公や読者のあずかりしれぬところで事件が発展していく感じが似ている気がしました。
ただ村上春樹と大きく違うのは、「ひまわりの祝祭」の方が何千倍も現実的なところです。
主人公の秋山秋二は、高校の時には油彩、大人になってからはデザインの方面で、注目を浴びるほどの人だったけれども、奥さんが亡くなって、今は無職で何もしない生活を送っている。そこへ昔の上司の村林がやってきて、頼みごとをされるところから、秋山は事件に巻き込まれることになります。
非合法のカジノ。そこへ老人に連れられやってくる、妻にそっくりな女の子。しきりに自分と接触をはかろうとする、その老人の秘書であり、カジノのマネージャーの原田。その原田に雇われて、自分を見張っている新聞配達の青年。それらと敵対しているらしい、ヤクザの一味・・・・
と次から次へと、目まぐるしく登場人物が現れてきます。
そしていつも、その人たちに注目を浴びている主人公。それが何故なのか分からないところから始まって、段々と事情が分かってくるのですが・・・
その事情というのが、ゴッホの「ひまわり」は12点ある、というのが定説だが、本当はもう一枚あるのではないか?というところから始まります。(以下ネタバレ含む)
結果的にいうと、この本の中では本当にもう一点あることになっていて、しかもそれを秋山の妻のおじいさんが、洋行した際に譲り受けてきた、ということになっています。
そしてその妻は、秋山の子どもでないはずの子どもをみごもったまま自殺してしまっていました。
そんなこんなで、原田側の人間と田代側が、秋山を中心に据えて、「ひまわり」の行方探しが始まるのです。
最後の方で、田代側には秋山が昔勤めたデザイン会社の社長がついていて、彼が秋山の妻を陵辱して、それのせいで妊娠してしまった妻が自殺したことが分かります。そこで、秋山は原田側につくのですが、秋山&原田vs田代の一味の死闘が繰り広げられ、秋山&原田は絶体絶命の危機に陥るのです。そこへ、妻にそっくりな娘が乱入してきて秋山&原田の勝利となりますが、その娘は死亡。
「人が死んだ。あのひまわりのために、ふたりが死んだ」(p425)ということで、秋山はその「ひまわり」を、燃やしてしまうところで話は終幕。
出てくるキャラの中で、一番魅力的だったのは、この原田でした。
原田は優美で頭もよく、武道にも長け、それでいてゲイ。この“ゲイ”であることが、原田を魅力的にするのが、ある意味お約束、と思いつつ不思議でした。なぜ小説の中のゲイは、大抵はいいキャラなのか?と・・・
多分、キャラがゲイであれば、社会的立場が他に比べて不利な分、付加価値がどんどん付いてくるからでしょう。原田に限っていえば、優美であったり、物腰が柔らかかったり、かしこかったり・・・と、ここまで完璧な人はいないだろ!という人なのにゲイ、という・・・。逆に、ゲイにすることによって、現実にはなかなかいないようなキャラにすることができるのかもしれません。
などと、本におけるゲイキャラについての考察で終わる前に、面白い沈黙についての描写を;
沈黙があった。今度は長いあいだつづいた。かたつむりの歩みを聞くような沈黙だった。
p259
(藤原伊織 「ひまわりの祝祭」 講談社 1997年)
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