先日友達に会った時に、三浦しをんにはまっている、と言われました。というのも、その前に会った時に、私が「三浦しをんのエッセイを読むと、なんか自分に重なって重なって・・」などと紹介したもんだから、彼女は興味を覚えて読み始めたらしい。そうしたら、エッセイしかろくに手をつけていない私と違って(しかもこの頃は恩田陸に浮気気味)、彼女は小説まで手をつけて、驚くべき速さで読み漁っていました。
「このぐうたら度合いというか、そんな生活を愛してやまないところがそっくりだよね~」
と言い合いながら、「でもそんな三浦しをんと私たちの違いって、うちらはぐうたらするだけでなんの生産性がないのに対して、彼女はちゃんと生計をたてていいよね~ 手に職を持つ(?)ってすばらしい」とため息をつくのでした・・・。
そんなわけで、三浦しをんをまた読みたくなって「乙女なげやり」を読んだのでした。
分かっちゃいるけど面白いわ~ そして友達になりたい・・・。てか弟子にしてくれ。
エッセイに出てくる三浦しをん女史の友達方がまたもや濃い人が沢山で、そんな中でキャラが濃いのは弟さんのような気がしてなりません。やっぱり血・・・?と言ったら、弟さんに猛然と抗議されそうですが・・。
少女マンガを語ると熱い三浦しをんさんの、少女マンガ考にうなされました;
「少年漫画」の反対語が「少女漫画」であるかのように思えるけれど、それはちょっと違っていて、「少年の冒険・成長」をテーマの主眼に据える作品が多い少年漫画とは、少女漫画の方法論は実は異なっている。
p37-38
話は少しそれるが、たとえば「週刊少年ジャンプ」に掲載されている漫画を、女の子たちが熱心にパロディー作品にする現象がある(たいてい、登場人物を勝手に同性愛の関係にしてしまう)。これは、「少年漫画」(少年のために描かれた少年が主人公の物語)という非常に閉ざされた世界を、自分たちの物語として読み換えるための手段なのではないか、と感じることがある。…(中略)…
比べるに、少女漫画がパロディーの対象になることはとても少ない。それはたぶん、少女漫画の作品内ですでに、さまざまな人間関係の形を表現することが試みられているからであり、物語世界から弾き出された読者が自分の参入する余地を求めて作品を深読みしなきゃならないほど、閉鎖的な造りにはなっていないからだ。
つまり、「少女漫画」は元から、「対象として想定する読者枠」などというものが存在しない物語を擁してきたのではないだろうか…(中略)…。
じゃあ、少女漫画をはっきりと少女漫画にたらしめる一番わかりやすい要素はなにかと考えると、「絵柄」なんじゃないかと私は思う。
これからも三浦しをん様についていこうと思いました。
(三浦しをん 「乙女なげやり」 太田出版 2004年)
コメント