竹内栖鳳(1864-1942)
福田美術館で3/1から「栖鳳の時代」展が開かれると知り、行きたい!となり予習。
上村松園の師であることと、もう半端なく絵がうまいってことくらいしか知らなかったのだけれども、調べてみると、明治という西洋化が進む時代の中で、新しい”日本画”の姿を提示した偉大な画家ということを改めて知ることができました。
概要(代表作品)
竹内栖鳳というと、この絵を思い浮かべる方も多いのはないでしょうか?
ふわふわの猫の毛に、美しい青緑の瞳。毛づくろいする一瞬をとらえた本作の写実性たるや!
この猫は、沼津に滞在している時に偶然見つけた八百屋の猫で、絵心がくすぐられ、交渉して譲り受けたという、今であれば軽く炎上しそうな経緯ではあるのですが、栖鳳の猫を愛でる眼差しを感じられます。
この絵にあらわれているように、栖鳳の作品は丹念な観察に基づく写実性が特徴となっています。
こちらの獅子を見ても、伝統的な獅子とはまるっきり異なり(そもそも伝統的な獅子は空想上の動物ですが…)、西洋画のような立体感を伴った写実性に富んでいるのがよく分かります。
どのようにして、このような絵画にたどり着いたのか、見ていきたいと思います。
幼少期~棲鳳の時代
実は、竹内栖鳳、画号を元々棲鳳であったところから栖鳳に変えています。このセクションでは棲鳳としていた時代までについて記述します。
竹内棲鳳は元治元年(1864)11月22日に、京都で小料理屋を営む竹内政七ときぬの長男として生まれます。本名は恒吉と言います。なじみの友禅画家が、退屈していた恒吉少年の前に現れて、カキツバタを描いて見せてくれたのをきっかけに、墨の濃淡で現れるその絵画に魅了されます。長男ですので、小料理屋を継ぐように言われますが、姉に譲り、自分は絵画の道へ進むことを希望します。
まず近隣に住む、四条派の土田英林に絵を習いに行きます。当時、日本の絵画界は崩壊していたといってもいいくらいで、土田英林も画業一本では食べていけず、友禅の下絵なども行っている状態でした。
明治14年(1881)、17歳の時に土田英林の勧めもあり、より高名な幸野楳嶺に入門します。この幸野楳嶺、画家として有名なだけではなく、教育者としても優れていました。当時の東京では画壇分裂などのごたごたがあったみたいですが、京都は幸野楳嶺というリーダー的存在がいたおかげで、世代交代の移行もスムーズに、分断などもあまりなかったそうです。
幸野楳嶺が後進の育成に熱心だったというのは、京都府へ画学校設立の建白書を上申した1人でもあったことからもうかがえます。そのかいあって、明治17年(1884)京都府画学校が設立されます。ちょっと脇道に逸れますが、この学校の遍歴を書くと、この後京都府から京都市に移管されます。1894年には京都市美術工芸学校、1901年に京都市立美術工芸学校と改称されます。更に1909年に京都市立絵画学校(現在の京都市立芸術大学)が併設されました。
棲鳳も同年に入学、明治20年に卒業します。同年8月に結婚、画家として開業します。話が前後してしまいますが、明治19年にフェノロサが京都に来た際、幸野楳嶺と共にその講演を聞き、いたく刺激を受けたそうです。その後、様々なところに作品を出展し次々と受賞。まさに若手ホープでした。
新進気鋭の画家でしたが、明治25年(1892)に京都市美術工芸品展に《猫児負暄》を出展したおりに、”鵺派”と言われます。これは、猫を円山派、岩を狩野派、草木を四条派と、異なる派の描き様を一つの絵にまとめたため、それを非難してのことでした。しかし、流派にとらわれず作品に取り込む、という姿は、その後の西洋絵画の技法を日本画に取り込む、という姿勢を示唆していると言えるでしょう。この柔軟な姿勢こそが、素晴らしい作品へと繋がったのは間違いありません。
栖鳳へ
明治33年(1900)、36歳の時に大きな転機を迎えます。パリ万博にて『雪中燥雀』が銀牌を受け、7カ月間、ヨーロッパ視察旅行に行ったのです。そこでコローやターナーといった画家たちの作品を熱心に学んだのです。写実を追求した円山応挙を祖とする円山派を勉強した京都の画家たちにとって、同じく写実性の高い西洋画は取り入れやすかったと思われます。が、棲鳳の積極性や、新しい日本画を確立させようという意思もあってこその吸収力とも言えるでしょう。
視察旅行から帰国後、第七回新古美術品展に《獅子》を出展した際に、画号を栖鳳と改めました。
写実性の高い作品を次々に発表した栖鳳は、”動物を描けば、その匂いまで描く”と称されました。
個人的に興味深いのは、こんなにも西洋画から学んだ写実性に富むのに、伝統的な日本画のように影を描かないところです。それでいて浮いたように見えないところがすごい。西洋画に学ぶというと、影を描きたくなってしまう自分が浅はかに感じてしまいます…日本画の良さ(面白さ)を残しつつ、西洋画の良さを取り入れた結果なのでしょうか。
因みに、栖鳳というと動物の絵というイメージですが、数は少ないですが人物画もあります。
こちらは切手にもなった作品。全体的に緻密な描写による写実、というより緩急のついた描き方が、舞妓さんに動きを出しているように見えます。
晩年にはこういった水墨、もしくは淡彩の作品も残しています。それこそターナーにも通じるような、一見写実とは離れていったようにも見えますが、この形の確かさは鋭い観察によるものに違いありません。
後進の育成
栖鳳の師幸野楳嶺がそうであったように、栖鳳も後進の育成に力を入れていました。
明治27年(1895)には京都市美術工芸学校の教諭に任命され、明治42年(1909)に京都市立絵画専門学校が開校されるとその専任教諭となり、大正3年(1914)まで勤めます。更に私塾竹杖会(1894年頃~1933年解散)も主宰していたので、京都にいて栖鳳と接しない画家は本当に少なかったようです。
門人たちに慕われていたようで、弟子である小野竹喬たちが文展を離れて国画創作協会を結成した折には監査顧問に就任するという、官展に反旗を翻した門人を叱責するどころか応援するという懐の深さだったようです。
まとめ
若い頃から流派にとらわれない柔軟性をもった竹内栖鳳。早くから頭角をあらわし活躍していましたが、ヨーロッパ視察旅行を転機に、西洋画をも取り込むことで更なる発展を遂げます。
京都画壇の頂点に立ち、”東の大観、西の栖鳳”と称されるくらい、日本を代表する画家となります。
後進の育成も熱心にとりくみ、その門人には小野竹喬、土田麦僊、上村松園といった次の時代に京都画壇を担う画家たちがいます。
晩年には、文人画に通ずるような詩情豊かな作品も制作しました。
参考文献
以下、参考にし且つおすすめの書籍です;
大判の画集で、クオリティが高いです。《班猫》の瞳のクローズアップが画質良いままあったりして、多分、本物を目の前にしてもここまでよく見えないんじゃないか!?レベルまで見れます。
明治に入り西洋化が進むなか、西洋のものと区別するために名付けられた”日本画”。その発展をフルカラーの図版とともに語られています。平塚市美術館にて、一般市民大正に行われた館長講座がベースとなっているらしく、そのためか分かりやすい文章になっています。
実は本棚に眠っていた本。が…今回読んでみたらめちゃくちゃよかった!フルカラーの図版くらいとしか思っていなかったけれども、「京都府画学校」の項があったりと、切り口が面白いし興味深いものばかり。侮っていたごめん!と思っています。
ちなみに完全なる余談ですが、”鵺派”と見て、すぐさま「鵼の絵師」というマンガを思い出しました。ちょっと”ぬえ”と呼ばれる所以が違うのですが(しかもこちらは油絵)、こちらもめちゃくちゃ面白いです↓
コメント