長崎の教会堂をめぐれば必ず1回は耳にする:鉄川与助

鉄川与助(1879-1976)

先日、長崎の五島列島へ旅行で行ったのですが、それにあたって調べると出てきたのが「鉄川与助」という方の名前。
五島列島のみならず、長崎やその近隣の県の教会堂を数多く手がけた大工棟梁とのこと。
手掛けた教会堂の数、50棟くらいらしい!

ということで、素晴らしい大工棟梁について調べていきたいと思います。

生涯

鉄川与助は明治12年(1879)、五島列島・中通島の新魚目町に、大工棟梁であった鉄川与四郎の長男として生まれました。
尋常高等小学校を卒業(1894)後、大工の修行に入ります。

さて、長崎といえば隠れキリシタンが多く潜伏していた地です。彼らは豊臣時代からのキリスト教禁制のなかで、潜伏組織を作り、250年もの間に信仰を受け継いでいっていたのでした。
慶応元年(1865)に信徒が発見され、長崎各地からキリシタンが名乗り出たところ、最後の弾圧が起きます。それに対しての外国からの批判により、禁教の高札が撤去されたのが明治6年(1873)でした。

こうした背景で、五島列島にも多く住んでいたキリシタンにとって悲願の教会堂が建設されていったのでした。

与助が初めて教会建設に関わったのは、明治34~35年(1901~1902)に、外国人宣教師であるペルー神父が手掛けた旧曽根教会堂の建築に参画してのことでした。

明治39年(1906)、27歳の頃に家督を継ぎ、鉄川組を創設します。
その頃には冷水教会堂や旧野首天主堂を棟梁として手掛けられるまでになり、生涯にわたって50棟ほどの教会堂を完成させました。

その功績が認められ、昭和34年(1959)に建設大臣賞、黄綬褒章、昭和42年(1967)には勲五等瑞宝章を受章しています。

それだけではなく、手掛けた建物の多くが文化的保護を受けており、国重要文化財になっているのが5件、長崎県指定文化財になっているのが4件と、近代に活躍した1人の設計施工による建築群が、こんなにも文化的価値が認められているのは他に例がないのではないでしょうか。

なぜ、こんなにも素晴らしい建築を生み出したのか。それを探ってみましょう。

ポイント① 大工の家だった

前述の通り、大工の棟梁の長男として生まれ育った鉄川与助。
宮大工の家だったとも言われています。

教会建築に携わるから大工というのは当たり前ではないか!と言われてしまいそうですが、
日本の大工さんはかなりのオールマイティーでした。

時は遡って江戸時代の始まりに作られた木割書(建築のマニュアルみたいなもの)『匠明しょうめい』には”大工は「五意達者」であるべし”と書かれています。
「五意達者」の五意とは、①設計 ②見積り ③大工としての手仕事 ④彫刻などの下絵を描くこと ⑤彫刻だったのです。
つまり、手仕事だけ上手であれば良いという訳ではなく、設計もやれば、彫刻の下絵が描けるくらいの絵心も持ち、そして彫刻も自分でできるくらいの器用さも必要だったのです。

鉄川与助だけではなく、明治期の洋風建築の多くは日本人大工が手掛けています。
当時の大工さんがオールマイティーだったからこそ、見たことものない建築様式の建物も、立派に建てることができたのではないでしょうか。

鉄川与助も尋常高等小学校卒業後から大工修行に入り、こうした伝統的な大工技術を受け継いでいました。
その技術の高さは、与助が残した工夫を凝らした大工道具から見て取れます。

ポイント② 外国人宣教師の存在

当たり前のことながら、いくら日本の大工さんが優秀であっても、自分たちだけでは見たこともない形の建造物、教会堂なぞ造れるわけがありません。
外国人宣教師たちによる設計・指導があってこそでした。

日本に派遣されていた外国人宣教師は、東アジアの布教担当だったフランス人神父たちでした。
外国人宣教師たちは、医療や建築をはじめとする幅広い技術を身に着けていました。

鉄川与助も晩年に、ペルー神父より、教会には欠かせないリブ・ヴォールトの工法と幾何学を学んだことを回顧しています。

特に鉄川与助と親交が深かったのはマルコ・マリー・ド・ロ神父でした。
二人が出会ったのは、与助が32歳となり、長崎本土や県外からの依頼も増えつつあった頃でした。
70歳過ぎていたド・ロ神父は、与助を可愛がり、建築に関する書籍や、木工用施盤、カンナなどを与えて指導したようです。

このように宣教師たちとも親交があった鉄川与助でしたが、なんと…仏教徒で生涯貫き通します。
信者でない人に教会堂を建ててもらうなんて…という声があがったこともあったようですが、そんな中でも、教会堂の注文が入り、神父たちとも親交が深かった鉄川与助。
腕だけではなくて、人柄も良かったのかなーと思わされます。

ポイント③ 勉強熱心だった

人柄がよかった、というのもそうかもしれませんが、何よりも勉強熱心だった、というのも宣教師たちに可愛がられた最大の理由の1つでしょう。

明治41年(1908)と、鉄川組を創設して2年後には日本建築学会に准員として入会しました。
学会に入会したことにより、建築・設計・技術、新しい製品などの情報はもちろんのこと、請負や契約に対する考え方、契約関係書類など、新しい形式のビジネスの仕方も吸収し、更には九州以外の地域の情報や人脈を広げていきました。

東京の講演会にも積極的に参加し、機関誌『建築雑誌』を講読して独学に励んだそうです。

こうした熱心さは建築にも見られ、鉄筋コンクリートの専門書をいちやく入手し、独学で習得。日本建築学会が鉄筋コンクリートの標準仕様書・構造計算基準を発表するよりも先に、大正11年(1922)に鉄筋コンクリート構造の長崎神学校を建てています。

そもそも、今までの大工仕事にはなかった煉瓦や石といった建材を使い始めたところに、旧来のものに囚われない向上心が感じられますし、それを継続して持ち続けたところも素晴らしいですね!

鉄川与助が手掛けた教会一覧

こうした鉄川与助が手掛けた教会建築はどこで見られるのでしょうか?
一覧にまとめてみました。
なお、今でも見られる、現存のもののみのリストアップとなります。
※リンククリックでGoogleマップ情報へ飛びます

五島列島

冷水天主堂明治40年中通島
旧野首天主堂(県指定)明治41年野崎島
青砂ヶ浦天主堂(重文)明治43年中通島
楠原天主堂明治45年福江島
大曽天主堂(重文)大正5年中通島
堂崎天主堂(県指定)大正6年福江島
江上天主堂大正7年奈留島
頭ヶ島天主堂(重文)大正8年頭ヶ島
半泊天主堂大正11年福江島
水の浦天主堂昭和13年福江島

その他長崎

山田天主堂明治44年平戸
旧長崎大司教館(県指定)大正4年長崎市
田平天主堂(重文)大正6年平戸
紐差天主堂昭和4年平戸
西木場天主堂
※与助の指導で息子・与八郎が設計
昭和24年松浦市

長崎県外

今村天主堂(重文)大正2年福岡県
手取天主堂昭和3年熊本県
呼子天主堂昭和4年佐賀県
大江天主堂昭和8年熊本県
﨑津天主堂昭和10年熊本県

参考文献

『鉄川与助の教会建築/五島列島を訪ねて』
LIXIL出版 2012年

展覧会の図録。そのためかポイントが抑えられていて読みやすい。
本の構成もおしゃれ。


『天主堂建築のパイオニア・鉄川與助-長崎の異才なる大工棟梁の偉業』
喜田信代 2017年 日貿出版社

鉄川与助の業績を丹念に追った本。
膨大なデータに一見、堅苦しい本に見えるけれども、ちょいちょい作者さんのお人柄を感じられる文章が盛り込まれていたり、鉄川与助の子孫に会われていたり、何よりも実地に行かれての文章なので読みやすい。


『図説 長崎の教会堂 風景のなかの建築』
木方十根、山田由香里 2016年 河出書房新社

割としっかりとした解説書になっていて勉強になる。
しかも「風景・暮らしと教会堂」「花と木の教会堂」…と切り口も面白い。


『長崎の教会 NHK美の壺』
NHK「美の壺」制作班 2008年 日本放送出版協会

いわずと知れた有名なNHK番組、「美の壺」の本。
さすがに写真もきれい。薄いけれども、ポイントが抑えられていて、旅行前にこれだけでもさっと読むと、旅が面白くなるかも。


『教会のある風景 日本の教会堂を訪ねて』
亀田博和 平成12年 東京経済

長崎だけではなく日本全国の教会について。
本業でないながら、日本の教会堂に魅せられて、全国津々浦々、足を運び、写真を撮られているのがすごい。


最後に…鉄川与助のお孫さんが作られたと思しきサイトがあったので、貼っておきます。
教会一覧は、こちらのサイトの「おじいちゃんの建てた教会」も参考にさせてもらいました。

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