ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオ(1571-1610)
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レンブラントなど、後世の画家に多大なる影響を与えたカラヴァッジョ。
後世どころか、活躍している当時においても「カラヴァジェスキ」と呼ばれるカラヴァッジョ風の作品を制作する画家たちを輩出するほどの影響があったカラヴァッジョ。
その作風がいかにセンセーショナルであったかは、カラヴァッジョが活躍し始める頃に、一流とされていた作品を比べてみるとよく分かります。
左から、カラヴァッジョがローマにやって来た頃に最も権威があったフェデリコ・ズッカリ(1542/3頃-1609)の作品、ズッカリの後に大人気となったカヴァリエール・ダルピーノ(ジュゼッペ・チェーザリ)(1568-1640)の作品、そしてカラヴァッジョのデビュー作です(クリックで全体表示されます)。
色調が違うだけではなく、カラヴァッジョの臨場感たるや、ズッカリやダルピーノの作品に慣れていた人たちには衝撃的だったのは想像に難くないでしょう。
このように当時から大人気であったカラヴァッジョですが、私生活においては素行が悪く、他の巨匠では見られないレベルの犯罪歴を持っています。
なんと、素晴らしい宗教画を数々生み出す裏で、殺人まで犯しているのです。
今回は、犯罪歴を中心に、カラヴァッジョの一生を見ていきたいと思います。
作品の話というよりも、犯罪歴の話になっているので悪しからず…です。
尚、全犯罪の詳細は当記事のフルバージョンをご参照ください。
誕生からローマに行くまで(1571~1595-6頃)
まず、カラヴァッジョが主に活動したローマへ行くまでを簡単に見ていきましょう。
カラヴァッジョは1571年にミラノで生まれました。
6歳の頃、ミラノでペストが流行したため、一家は呼び名の由来となるカラヴァッジョへ移住します。
しかし、父や祖父はペストにより死去してしまいます。
画家としてのスタートは、13歳の頃(1584年)、ミラノの画家シモーネ・ペテルツァーノ(1540頃-1599)と4年間の徒弟契約を結んだのは分かっていますが、その内容は分かっておらず、また契約後何をしていたのかも分かっていません。
1590年に母が死去したのをきっかけに、弟と妹の遺産分配相続を行った後、ほどなくミラノを去ります。
なぜミラノを去ったのかは分かっていないのですが、何かしらのトラブルを起こして故郷にいられなくなったからではないか、と考えられています。
はっきりとした資料は残っていませんが、カラヴァッジョの死後書かれたカラヴァッジョ伝に「仲間を殺害して故郷から逃げた」であったり、「貴族と売春婦をめぐっての警官が殺された刃傷事件に関与し、そのため1年間も投獄された」といった記述が見られるからです。
何はともあれ、ミラノを去ったカラヴァッジョ。
はっきりとしたローマ到着年が分かっていませんが、1595年か1596年に着いたのではないかと考えられています。
ローマ時代(~1606)
登場人物
事件を見ていく前に、人間関係を見た方がより理解がしやすいと思うので、主要となる人物を紹介します。
カッとしやすい性格で、口論や乱闘は日常。当時のイタリアにおいても特筆すべきだったようで、伝記ではしばしば”喧嘩好きで、彼と付き合えるのは稀”と書かれているほど。
仕事が早く2週間ほどで仕上げると、その後数カ月は剣を下げ、従者を従えて町を練り歩く。
シチリア出身の画家。
カラヴァッジョの弟分のような存在で、初期の頃、カラヴァッジョの作品のモデルを務めることもしばしば。
可愛らしい顔に似合わず、カラヴァッジョとつるんで悪行三昧。
故郷のシチリアもトラブルを元に去ったらしいが、その後戻り、そこで活躍。
カラヴァッジョと同じくミラノ出身の建築家。
”彼と付き合えるのは稀”と書かれたカラヴァッジョだけれども、彼とは異常なまで仲良くなり、カラヴァッジョも無二の親友とであると公言している。
カラヴァッジョの関与する警察沙汰のほとんどに関わっている。
ローマにおけるライバル画家。
人気となったカラヴァッジョの様式に似た作品を制作し、カラヴァッジョから反感を買う。
カラヴァッジョ死後、美術家列伝を書き、そこにカラヴァッジョについても書いている。かなり悪意に満ちているが、貴重な伝記であることは間違いない。
カラヴァッジョの住む地域を牛耳っていたトマッソーニ兄弟の1人。
トマッソーニ兄弟は有力者のつながりを隠れ蓑にして、しばしば喧嘩や障害といった警察沙汰を起こしている。
カラヴァッジョやロンギとは旧知の仲だった。友好関係にあった時もあったかもしれないが、反目し合う。
カラヴァッジョの周辺人物というと、パトロンや友人など、もっとたくさんいますが、事件を知る上で知っておいた方がよさそうな最低限の人物に絞り込みました。
因みに、ロンギとラヌッチョは肖像画が残っていないので私の想像です。
人気画家になるまで(~1600)
カラヴァッジョがローマにいることを確認できる最初の史料は、1597年の音楽家アンジェロ・ザンコーニが何者か棍棒で襲われた、という事件です。
カラヴァッジョは直接関与しておらず、ザンコーニが襲われた際に落としたというフェッライオーロ(マント)を届けた人物として登場します。
また、ここでカラヴァッジョは最初のパトロン、デル・モンテ枢機卿の使用人として紹介されています。
ちなみに、下の《いかさま師》が、デル・モンテ枢機卿の目に留まり、枢機卿の庇護に入りマダマ宮に住むきっかけとなった作品です。
カラヴァッジョの最初の犯罪歴となるのがこちら;
15978年5月3日 武器の携帯許可証の不所持による逮捕
武器の携帯許可証を持たずに、剣と2つのコンパスで武装していたとして、マダマ広場とナヴォナ広場の間で警官に逮捕され、トル・ディ・ノーナに収監されて取調べを受ける。
カラヴァッジョは、デル・モンテ枢機卿の邸宅に住み、給料をもらう枢機卿の画家として、武器携帯の権利があると主張。
これ以降、何回かカラヴァッジョは武器の携帯許可証をめぐって逮捕されています。
この頃、描かれた作品群(クリックで全体表示されます)↓
《果物籠》は特に注目してほしい作品で、イタリアで最も早い静物画であるとともに、最高傑作と言われています(植物学的にも正確だとか!)
また、それまで風俗画ばかり描いていたカラヴァッジョですが、1597年頃から宗教画も描くようになりました。
ちなみに、《アレクサンドリアの聖カテリナ》と《ホロフェルネスの首を斬るユディト》のモデルは、シエナ出身の高級娼婦フィリデ・メランドローニとされています。
彼女はラヌッチョの情婦でした。
人気画家になってから、ローマを去るまで(1600~1606)
1600年7月、オノーリオ・ロンギと歩いていたところ、すれ違ったファビオ・カノニコたちにロンギが暴言を吐き、そこから殴り合いの喧嘩に。
カラヴァッジョは、手を負傷したファビオから訴えられます。
ロンギの輩っぷりがうかがえるこの事件。。。
同時期に、カラヴァッジョは《聖マタイの召命》と《聖マタイの殉教》で大成功をおさめます。
これを一目見ようと大ぜいの人が押しかけ、人だかりとなったとなりました。
このサン・ルイージ・デイ・フランチェージ聖堂コンタレッリ礼拝堂での仕事は、初めての大きな公的な仕事となり、大成功をおさめたカラヴァッジョは一躍人気の画家となったのでした。
今度はカラヴァッジョの犯した事件…
1600年11月17日の夜8時頃、ジロラモ・スタンパーニは、アカデミーで勉強した帰りにろうそくを買うために、ろうそく屋の扉を叩こうとしたところ、突然襲われて棍棒で何度も殴られました。
叫び声をあげたら、幾人の肉屋が明かりを持ってきたのカラヴァッジョの仕業と分かったのです。
カラヴァッジョはその後、剣で襲いかかってきましたが、スタンパーニはフェッライオーロ(マント)で身を守ったので無事でした。
翌年1601年に和解し、スタンパーニは告訴を取り下げました。
なぜカラヴァッジョが襲ったのかは分かっていません。
1601年には3件の犯罪記録が残っていますが、その中で後に続く1件を紹介します。
1601年10月1日の夜7時ごろ、カラヴァッジョの敵ジョヴァンニ・バリオーネの弟子であるトンマーゾ・サリーニ(通称「マオ))が、バリオーネの従者と歩いていると、カラヴァッジョたちに遭遇。
一行が通り過ぎた後、カラヴァッジョは背後からサリーニに剣で襲いかかります。
サリーニも剣で応戦すると、カラヴァッジョは「ベッコ・フォットゥート」や「ベッコ・コルヌート」(いずれも「この寝取られ野郎」といった意味)と罵詈雑言は吐きながら、何度も剣で打ちかかりました。
サリーニは危機一髪、近くの床屋や大工が駆けつけて事なきを得たと言います。
師匠のバリオーネ(右)と同じく、サリーニはカラヴァッジョ風に風俗画や静物画を描いたことから、カラヴァッジョに大分嫌われていたようです。
それどころか、カラヴァッジョの作品を自分が描いたと偽ったこともあるというのだから、カラヴァッジョが怒り狂うのも分からないでもないですよね…
次の事件はこのバリオーネの起こした裁判になります。が…その前に、この頃制作された作品例を…
バリオーネ裁判
さて、次の事件は「バリオーネ裁判」として非常に有名なものになります。
1603年8月23日 ジョヴァンニ・バリオーネは、自分の作品を誹謗中傷する卑猥な2編の詩を回覧したとして、オノーリオ・ロンギ・カラヴァッジョたちを名誉棄損の罪で訴えます。
バリオーネの言い分では、ジェズ聖堂の祭壇画を自分が制作したことにより、その注文を獲得したかったカラヴァッジョが嫉妬心により犯行に及んだというのです。
この裁判をよりよく知るために、バリオーネとの因縁を見てみましょう。
バリオーネがカラヴァッジョ風の作品を制作するようになったのは既に述べた通りですが、こんな経緯もありました。
カラヴァッジョは、ジェスティニアーニ候に《勝ち誇るアモル》という絵を描きました。
するとその後、バリオーネは同じくジェスティニアーニ候に《天上の愛》という絵を献上し、金の首飾りをもらっているのです。
この《天上の愛》、完全に《勝ち誇るアモル》に対抗して描かれたものでした。
明暗の効果、細部の描写が似ているだけではなく、”アモル”に対して”天上の愛”が勝っている(右下にいるのがアモル)という構図は、喧嘩を売っているとして考えられません。
自分の様式を真似、自分のパトロンにまで接近したバリオーネを、カラヴァッジョが軽蔑し憎んだのも無理はないでしょう。
結局、この”卑猥な詩”を誰が書いたのかは明らかになっていません。
が、この裁判を有名にしたのは、裁判でのカラヴァッジョの証言を通して、カラヴァッジョの交友関係や芸術観の唯一といっていい”肉声”が聞けるからです。
カラヴァッジョは、芸術観をこう語っています。
すぐれた画家とは、自然の事物をうまく描き、うまく模倣することのできる画家だ
これは写実主義・自然主義の提言とも言えるでしょう。
ちなみに、この裁判には後日談があり、11月16日にロンギが、ミサに出ていたバリオーネとサリーニを、教会の外やサリーニの家の入り口で剣を抜いて脅す、という事件を起こしています。
ロンギは有罪となり、自宅軟禁を命ぜられています…
その後の事件として、カラヴァッジョの短気っぷりが分かる事件を紹介します。
1604年4月23日頃、カラヴァッジョは仲間と2人とともにオステリーア(居酒屋)を訪れ、カルチョーフィ(アーティチョーク)を8皿注文しました。
給仕のピエトロ・ダ・フォザッチャが出来上がった料理を運ぶと、カラヴァッジョが「どれがバターで料理したもので、どれが油で料理したものなのか?」と聞くので、「匂いをかいでみれば分かるでしょ」と答えます。
するとカラヴァッジョは激怒。何も言わずにカルチョーフィの皿をピエトロの顔めがけて投げつけ、軽い怪我をさせたうえに、仲間の剣に手をかけて脅したというのです。
同じ店に居合わせた人は違う証言をしていますが、せっかくの料理を投げつけるとはもったいというか…
ちなみにこのアーティチョーク、イタリアでは春の食べ物として人気のメニューらしいです。何年も前のゴールデンウイークにイタリア旅行に行った時に食べてみましたが、なかなか美味しかったです。
閑話休題。
1604年にはこのほか2件、事件を起こしていますが、この時期にサンタ・マリア・イン・ヴァリチェッラ聖堂ヴィットリーチェ礼拝堂に名作を残しています。
1605年にはジェノヴァに逃亡するような事件を起こしています。
1605年7月29日の夜9時ごろ、マリアーノ・パスクワローニ・ディ・アックンモーリがナヴォナ広場を歩いていると、後ろから剣の一撃を受けて頭を負傷、地面に倒れてしまいました。
攻撃した者の姿は見えなかったけれども、カラヴァッジョと数日前にレナという女性のことで口論したこともあり、カラヴァッジョ以外に考えられないと訴えています。
犯人は推定で語られていますが、実際にカラヴァッジョは犯行を認め、パスクワローニに和睦を懇願しています。
8月にジェノヴァに逃亡したカラヴァッジョ、ボルゲーゼ枢機卿の調停により和解が進み、8月24日にはローマに戻りました。
この和解調停のお礼にと、ボルゲーゼ枢機卿に贈ったと思われるのが、この《執筆の聖ヒエロニムス》です。
ボルゲーゼ枢機卿はカラヴァッジョのパトロンで、カラヴァッジョの優れた作品を保有しているボルゲーゼ美術館が今もローマにあります。
1605年はこのほかに4件ほど事件の記録が残っています。
ラヌッチョ・トマッソーニ殺人事件
さて1606年、ついにカラヴァッジョの人生を大きく変える事件を起こします。
抗争による殺人事件なので、分かりやすくカラヴァッジョ側の人物は青線、ラヌッチョ側は黄線をひきました。
1606年5月29日。教皇即位1周年の祝祭でにぎわっていた夜。
カラヴァッジョ、ロンギ、ペトローニオ・トッパと、誰かは不明の1名、計4名の男が武装して歩いていました。
トマッソーニ家の前まで来ると、ラヌッチョがカラヴァッジョたちを見て、武装。
すぐに乱闘になります。
ラヌッチョ側には、兄のジョヴァン・フランチェスコ、ラヌッチョの妻の兄弟であるイニャーツィオとジョヴァン・フェデリコのジューゴリ兄弟がいました。
カラヴァッジョとラヌッチョが1対1で戦いました。ラヌッチョが腿を負傷して倒れたところを、カラヴァッジョが胸に一突き。
ペトローニオと戦っていた兄のジョヴァン・フランチェスコは、ペトローニオを半殺しにしてから駆け寄ってきて、カラヴァッジョの頭に切りつけます。
おそらくその時、警官がかけつけたか何かのため、一同は四散。
ラヌッチョは家に運ばれましたが、その後死亡。
ペトローニオは重症を負っていたため、翌日、床屋(当時は外科を兼ねていました)に治療を受けに行きますが、その尋常でない傷から警察にあやしまれ、この事件が発覚しました。
カラヴァッジョはこの事件の直後、逃亡して、旧知のコロンナ家が治めるローマ近郊のザガローロ、パレストリーナ、パリアーノなどの丘陵都市に身を隠して、乱闘の傷を癒しました。
珍しくあまり目立った動きをしなかったロンギは、家族を連れて故郷ミラノに逃亡します。
因みに、この時にロンギと一緒に故郷に帰らなかったことも、カラヴァッジョがローマに来る前、ミラノでなんらかのトラブルを起こしたと考えられる要因になっています。
乱闘の原因は、当時から賭けテニスにおける、賭け金のトラブルと言われていましたが、不審な点もあり、真相はよく分かっていません。
ただ、この地区を牛耳っていたトマッソーニ兄弟からすると、同じく界隈で武装し派手に遊んでいたカラヴァッジョ・ロンギを疎ましく思っていたというのは多いに考えられます。
殺人までに発展してしまったこの事件。
カラヴァッジョは逃亡を果たしますが、カラヴァッジョに対して「バンド・カピターレ」という、お尋ね者見つかり次第、誰でも当人を殺しても良い、という恐ろしい死刑布告が出されてしまいます。
以降、逃亡生活のなかで、カラヴァッジョは剣を片時も離さない、常に緊張状態を強いられることになります。
最初の隠遁先である丘陵都市で、逃亡資金を稼ぐために《エマオの晩餐》などの作品を制作します。
ナポリ時代(1606~1607)
乱闘の傷を癒した後、最初の逃亡先はナポリでした。
さすがにこの時期は大きな事件を起こさず、既にナポリでも有名になっていたカラヴァッジョは、ナポリの貴族や画家たちに歓迎されます。
この時に制作された一例は次の通りです;
マルタ島時代(1607~1608)
ナポリで人気を博していましたが、おそらくマルタ騎士団に入って騎士の称号を得たかったためマルタ島に渡ります。
マルタ島でも数々の優れた作品を残しますが、中でも《洗礼者ヨハネの斬首》は生涯最大の作品にして傑作です。
その功績が認められ、1608年7月14日にマルタ騎士団の「恩赦の騎士」に叙せられましたが、その直後、事件を起こしてしまうのです…
1608年8月18日、サン・ジョヴァンニ大聖堂のオルガン奏者プロスペロ・コッピーニの家の正面扉が打ち壊され、イタリア出身の騎士と修練士、計7名が剣と拳銃で乱闘。
カラヴァッジョと聖堂の司祭だったジョヴァンニ・ピエトロ・デル・ポンテが逮捕され、サンタンジェロ要塞に収監されます。
最終的に騎士団から除名、追放処分を受けたカラヴァッジョ。
しかしその前の10月6日、カラヴァッジョは要塞から脱獄します。
とうてい一人では脱獄できない所だったので、誰かしらの手引きがあってこその脱獄だったかと考えられています。
シチリア島シラクーザ/メッシーナ時代(1608-1609)
マルタ島から最初に逃亡したのはシチリア島のシラクーザでした。
そこには、ローマ時代の弟分ミンニーティがいたので、ミンニーティの元に身を寄せます。
ミンニーティの斡旋により、《聖ルチアの埋葬》の仕事を得ます。
更には、おそらく同じくミンニーティの手引きで、メッシーナにも滞在します。
そこでは《ラザロの復活》や《羊飼いの礼拝》などを制作しました。
そのメッシーナでまた事件を起こします。
これは正式な文書が残っているわけではなく、カラヴァッジョ死後のカラヴァッジョ伝に記載されている内容となります。
1608年、文法教師ドン・カルロ・ペペが生徒たちを引率して造船場へ来たところ、児童たちが戯れているのをカラヴァッジョがじっと見ていることに気付きます。
不審に思ったペペが、カラヴァッジョに「なぜずっと見ているのですか?」と尋ねると、カラヴァッジョは腹を立てて剣を抜き、ペペの頭を傷つけました。
これにより、メッシーナを離れざるを得なくなったと伝えられています。
ナポリ時代再び(1609~1610)
おそらくパレルモを経由してナポリに戻ってきます。
このナポリ滞在時に、カラヴァッジョが襲撃されるという事件が起きています。
1609年、ある晩、カラヴァッジョが有名なオステリーア・デル・チェッリーリオを出たところを、待ち伏せしていた4人の刺客に襲われ、顔にひどい傷を負いました。
これにより、ローマにはカラヴァッジョ殺害の噂が流れます。
待ち伏せしていたというところから、これが偶発的な喧嘩ではなく、計画的な犯行だったことがうかがえます。
誰がなぜ襲ったのか、というのは分かっていませんが、おそらくはマルタ騎士団での事件の報復だったのではないかと考えられています。
この第2ナポリ時代には次のような作品が制作されています。
どんどん暗闇に沈んだ作品になってきているように見えますよね‥
なんと《ゴリアテの首を持つダヴィデ》のゴリアテの首は、カラヴァッジョ自身の顔ということです。逃亡生活の果ての絶望感が見られると言うと、考えすぎでしょうか…
ローマへの道中での死(1610)
7月初頭、カラヴァッジョは殺人に関する恩赦を求め、船でローマへ向かうことにします。
ここでも事件に巻き込まれてしまい、これが為に死を迎えることになったと言ってもいいでしょう…
1610年、フェルーカ船でローマに向かっていたカラヴァッジョは、ローマから40キロほど西の海岸パーロで、カピターノ(守護隊長)によって逮捕、拘留されてしまいます。
その後、保釈金を払って釈放されますが、なぜ逮捕されたのかが分かっていません。
この後、カラヴァッジョはパーロから約100キロ北のポルト・エルコレに移動しています。
この移動手段も分かっていません。
が、おそらく…
逮捕されている間にカラヴァッジョの荷物を載せたまま船は出航。
その荷物の中には、恩赦のために贈ろうとしていた絵画が入っていたため、船の次の寄港地であるポルト・エルコレに移動したのだろうと思われます。
カラヴァッジョが所持していた作品は、《マグダラのマリア》と2点の《洗礼者ヨハネ》だっと伝えられており、その1つがこの《洗礼者ヨハネ》だったようです。
ポルト・エルコレにて熱病で倒れたことから、もしかしたら暑い夏の日差しの中、歩いてポルト・エルコレに、向かったのかもしれません。
熱病で倒れたカラヴァッジョは、7月18日にサンタ・マリア・アウジリアトリーチェ病院にて、38歳10カ月の生涯を閉じたのでした。
惜しくも、ローマではカラヴァッジョの恩赦に向けて動いているところでした。
おわりに
いかがでしたでしょうか?
犯罪歴が多く残っているカラヴァッジョですが、よく見てみると、カラヴァッジョが特殊であったというよりは、当時のローマが、芸術家をはじめとして多くの人々が集中し、あまり治安が良くなかったようにも見えます。
また、偏屈でとっつきにくいと思われているカラヴァッジョですが、ピンチの時には多くの人に助けられています。
殺人を犯した時ですら、匿ってくれるパトロンや、助けてくれる友人たちがいました。
これはカラヴァッジョの才能に惚れていたから、というだけではなく、人柄にも惹きつけられるものがあったのでしょう。
臨場感あふれる作品を作ったカラヴァッジョですが、その生涯も犯罪記録を通してだからこそ、他の画家たちとは違って、よりパーソナルな部分を感じられる気もします。
また、犯罪記録を通して作品を見ることで、ちょっと違った角度から作品を見る助けになっていれば幸いです!
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