ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオ(1571-1610)
レンブラントなど後世の画家に多大なる影響を与えたカラヴァッジョ。後世とはいわず活躍している当時においても、「カラヴァジェスキ」と呼ばれるカラヴァッジョ風の作品を制作する画家たちがいたカラヴァッジョ。まぎれもない巨匠でしょう。
その作品がいかに斬新であったか、その当時、一流とされていた作品と比べて見るとよく分かると思います。
カラヴァッジョがローマにやって来たころに最も権威があったフェデリコ・ズッカリ(1542/3頃-1609)の作品(左)と、ズッカリの後に大人気となったカヴァリエール・ダルピーノ(ジュゼッペ・チェーザリ)(1568-1640)の作品(右)を見てみましょう。ちなみに、カラヴァッジョはダルピーノの工房で働いてこともありました。
※以降、画像には原則、所蔵している美術館の該当作品のページへのリンクを貼っています(サイトがない場合は貼っていません。また画像は必ずしもそのサイトからの画像とは限りません)
いずれも明るい色調の華やかな印象を与えると思います。
それに対し…カラヴァッジョのデビュー作というのが…
全体的に闇に沈んだ中、ドラマチックな光が差し込んでいます。舞台を見ているような臨場感が感じられるのではないでしょうか。1600年に公開された時には、一目見ようと人だかりがすごかったようです。
そんな大革命とも言えるような、絵画の大変革を行ったカラヴァッジョですが、私生活において素行が悪く、他の巨匠では見られないレベルの犯罪歴を持っています。
素晴らしい宗教画を数々生み出す裏で、殺人まで犯しているのです。
ということで、今回は犯罪歴を中心に、その画業を見ていきたいと思います。
詳細な作品に関するお話というより、あくまで犯罪歴が中心となるのであしからず…です。
誕生からローマに行くまで(1571~1595-6頃)
カラヴァッジョが主に活動したのはローマですが、ローマに行くまでを簡単にまとめたいと思います。
カラヴァッジョは1571年にミラノで生まれました。
6歳の頃に、ミラノでペストが流行したため、呼び名の由来となるカラヴァッジョへ一家は移住します。
しかし、その後父や祖父はペストにより死去します。
13歳の頃(1584年)、ミラノの画家シモーネ・ペテルツァーノ(1540頃-1599)と4年間の徒弟契約を結んだのは分かっていますが、その内容は分かっておらず、また契約後何をしていたのかもわかっていません。
1590年に母が死去します。1592年に弟と妹と遺産分配相続を行い、その後ほどなくしてミラノを去ったようです。
なぜミラノを去ったのか分かっていませんが、バタバタとミラノを去ったことから、何かしらのトラブルを起こして故郷にいられなくなったからではないか、と考えられています。
というのが、カラヴァッジョ伝を書いたベッローニ(1613-1603)が「仲間を殺害して故郷から逃げた」というメモを残していたり、もっとも初期に伝記を書いたマンチーニ(1559-1630)が書いた判読しにくいメモからは「1人の貴族と売春婦をめぐって1人の警官を殺された刃傷事件に関与し、そのため1年間も投獄された」と読みとれることから、のっぴきならない理由からミラノを去ったのではないか、と推測できるのです。
さて、ローマでは教会や貴族の邸宅の建築ラッシュとなっており、あちこちからアーティストたちが集まっていました。
カラヴァッジョは1595年か1596年頃にローマに着いたのではないかと考えられています。
ローマ時代(~1606)
登場人物
各事件を見ていく前に、軽く登場人物を紹介します。
カラヴァッジョの周辺人物の中でも、重要度の高い人物のみ4名の紹介です。
カッとしやすい性格で、口論や乱闘は日常。当時のイタリアにおいても特筆すべきだったようで、伝記ではしばしば”喧嘩好きで、彼と付き合えるのは稀”と書かれているほど。
仕事が早く2週間ほどで仕上げると、その後数カ月は剣を下げ、従者を従えて町を練り歩く。
シチリア出身の画家。
カラヴァッジョの弟分のような存在で、初期の頃、カラヴァッジョの作品のモデルを務めることもしばしば。
可愛らしい顔に似合わず、カラヴァッジョとつるんで悪行三昧。
シチリアもトラブルを元に去ったらしいが、シチリアに戻りそこで活躍。
カラヴァッジョと同じくミラノ出身の建築家。
”彼と付き合えるのは稀”と書かれたカラヴァッジョだけれども、彼とは異常なまで仲良くなり、カラヴァッジョも無二の親友とであると公言している。
カラヴァッジョの関与する警察沙汰のほとんどに関わっている。
ローマにおけるライバル画家。
人気となったカラヴァッジョの様式に似た作品を作り、カラヴァッジョから反感を買う。
カラヴァッジョ死後、美術家列伝を書き、そこにカラヴァッジョについても書いている。かなり悪意に満ちているが、貴重な伝記であることは間違いない。
トマッソーニ兄弟の1人。
トマッソーニ兄弟の長兄ジョヴァン・フランチェスコは、カラヴァッジョが住んでいたカンポ・マルツィオ地区の地区長だったことから、トマッソーニ兄弟は有力者のつながりを隠れ蓑にして、しばしば喧嘩や障害といった警察沙汰を起こしている。
カラヴァッジョやロンギとは旧知の仲だった。友好関係にあった時もあったかもしれないが、反目し合う。
人気画家になるまで(~1600)
1597年7月8日 音楽家アンジェロ・ザンコーニの訴え
男に棍棒で襲われ、更に剣を持った2人の男に追いかけられた。その際に落としたフェッライオーロ(マント)を、翌朝、床屋マルコの使用人ピエトロパウロが返してよこした。
尋問を受けた人の証言では、カラヴァッジョ、画商コスタンティーノ・スパーダ、画家のプロスペロ・オルシの3人は、夕食から戻る途中で叫び声を聞き、フェッライオーロが落ちているのを見つけた。
翌日、床屋のピエトロパウロに渡せば持ち主に返るだろう、ということで、カラヴァッジョが届けた。
カラヴァッジョが直接関係した事件ではないけれども、これが、カラヴァッジョがローマにいることを確認できる最初の史料となります。
この中で、カラヴァッジョはデル・モンテ枢機卿の使用人として紹介されています。
ここで、ローマに着いてからデル・モンテ枢機卿の元へいくまでの足取りを見てみましょう。
ローマに来てすぐカラヴァッジョはいくつかの工房を回ります。最初の工房でミンニーティにも出会います。
しかしダルピーノ工房で知り合ったプロスペロ・オルシの勧めで工房を飛び出します。
画商スパーダにお願いして売りに出してもらっていた《いかさま師》(画面右)が、近所に住むフランチェスコ・マリア・デル・モンテ枢機卿の目に留まり、枢機卿の邸宅マダマ宮に住むことになります。
カラヴァッジョがマダマ宮に住むまでに制作したと言われる作品をいくつか紹介しましょう。
因みに《女占い師》のモデルはミンニーティと言われています。
15978年5月3日 武器の携帯許可証の不所持による逮捕
武器の携帯許可証を持たずに、剣と2つのコンパスで武装していたとして、マダマ広場とナヴォナ広場の間で警官に逮捕され、トル・ディ・ノーナに収監されて取調べを受ける。
カラヴァッジョは、デル・モンテ枢機卿の邸宅に住み、給料をもらう枢機卿の画家として、武器携帯の権利があると主張。
この頃、マダマ宮で描いた作品の一部の紹介です。
特に《果物かご》は特筆すべきの作品で、イタリアでももっとも早い静物画であるとともに、最高傑作となっています。
また、1597年頃から宗教画も描くようになりました。
《アレクサンドリアの聖カテリナ》と《ホロフェルネスの首を斬るユディト》のモデルは、シエナ出身の高級娼婦フィリデ・メランドローニとされています。
彼女はラヌッチョの情婦でした。
ローマで人気画家になってから、ローマを去るまで(1600~1606)
1600年7月 オノーリオ・ロンギとそのいとこステファノ・ロンギ、そしてスタンドリーリア出身のファビオ・カノニコらの諍い
オノーリオ・ロンギとファビオ・カノニコの喧嘩に、それぞれカラヴァッジョと画家マルコ・トゥリオが関与。
カラヴァッジョは、手に負傷をしたファビオから訴えられる。
<尋問を受けたロンギの証言によると…>
スクローファ通りをカラヴァッジョら友人と歩いていたロンギは、すれ違ったファビオとトゥリオに暴言を吐き、ロンギとトゥリオが殴り合いの喧嘩となった。
病み上がりだったカラヴァッジョは、剣を小姓(プット)に持たせていた。トゥリオが剣を抜いてもカラヴァッジョは剣を抜かず、二人を引き離す、つまり仲裁役を果たした。
完全にロンギが悪いこの事件。ぶつかって因縁つけたとかでしょうか…
翌年1601年にファビオとカラヴァッジョは和解し、ファビオは訴訟を取り下げて終わります。
同時期、カラヴァッジョがサン・ルイージ・デイ・フランチェージ聖堂コンタレッリ礼拝堂に描いた《聖マタイの召命》と《聖マタイの殉教》が公開され、大反響を得ます。
これが初めての大きな公的な仕事となり、大きな成功を収めたのでした。
一気に有名になり、制作の依頼が急増します。
1600年11月17日 モンテプチャーノ出身のジロラモ・スタンパーニ(スタンパ)の訴え
夜8時ごろ、アカデミーで勉強した帰りに、画家オラーツィオ・ビアンキとろうそくを買うために、ろうそく屋のドアを叩こうとした時、突然襲われてこん棒で何度も殴られた。
叫び声をあげると、幾人の肉屋が明かりを持ってきたので、カラヴァッジョの仕業と分かった。
カラヴァッジョは剣で襲いかかってきたが、フェッライオーロ(マント)で身を守った。そのため、御覧のとおりフェッライオーロが引き裂かれてしまった。
なぜカラヴァッジョがスタンパーニを襲ったのかは分かっていません。
が、翌年1601年にスタンパーニはカラヴァッジョと和解し、告発を取り下げました。
1601年から犯罪記録がますます増えます。。。
1601年8月9日 スペイン出身の画家クリストフォロ・オランディの訴え
夕方、午前中から一緒にいたカラヴァッジョと連れ立ってフィレンツェ出身の画家ヴィットーリオ・トラヴァンニの家に行った。カラヴァッジョは用事があるかと言って戸口で立ち去り、オランディは一人でトラヴァンニの家に入ったところ、トランヴァンニと数名から暴行を受けた。
カラヴァッジョは直接暴行に関与していませんが、トラヴァンニの家に連れて行った可能性は否定できません。
1601年10月1日 画家トンマーゾ・サリーニの訴え
カラヴァッジョの敵ジョヴァンニ・バリオーネの弟子である、トンマーゾ・サリーニ(通称「マオ」)は、カラヴァッジョに襲われたと訴える。
夜7時ごろ、バリオーネの従者ジャコモ・セッリアーニと歩いていると、他の者3、4人と一緒にいるカラヴァッジョに出会った。
一行が通り過ぎた後、カラヴァッジョは背後からサリーニに剣で襲いかかった。
サリーニも剣で応戦したが、カラヴァッジョは「ベッコ・フォットゥート」あるいは「ベッコ・コルヌート」(いずれも「この寝取られ野郎」といった意味)など、汚い侮蔑の言葉を口にしながら何度も剣で打ちかかって来た。
負傷はおろか、死んでもおかしくない状況だったが、近くの床屋や大工が駆けつけて事なきを得た。
師匠のバリオーネと同じく、サリーニはカラヴァッジョ風の風俗画や静物画を描いたことから、カラヴァッジョに嫌われていたようです。
それどころか、カラヴァッジョの作品を自分が描いたと偽ったそうなので、カラヴァッジョが怒り狂うのも分からないでもないような…
1601年10月11日 武器の携帯許可証の不所持による逮捕
デル・モンテ枢機卿の配下の者だと主張したが、証拠がないとしてトル・ディ・ノーナに収監された。
デル・モンテ枢機卿の配下と言っていますが、この頃にはマダマ宮は出て(6月)、マッテイ家にいたカラヴァッジョ。
マダマ宮を出てからも、祭壇画以外の宗教画の頂点に位置するような傑作を生み出しています。
1603年8月23日 バリオーネ裁判
ジョヴァンニ・バリオーネは、自分の作品を誹謗中傷する卑猥な詩二編を回覧した名誉棄損の罪で、オノーリオ・ロンギ、カラヴァッジョ、オラーツィオ・ジェンティレスキ、フィリッポ・トリゼーニを訴えた。
バリオーネは、ジェズ聖堂の祭壇画を自分が制作したことによって、その注文を獲得したかったカラヴァッジョが嫉妬心より犯行に及んのだと訴えた。
また、カラヴァッジョはいつも自分にたいして嫌がらせをする、とも述べている。
「バリオーネ裁判」として有名なこの裁判は、カラヴァッジョが自分の絵画観を語っていることでも有名です。
すぐれた画家とは、自然の事物をうまく描き、うまく模倣することのできる画家だ
写実主義、自然主義の提言とも言えるでしょう。
結局のところ、誰がその詩を書いたのかは分からずに裁判は終わっています。
ちなみにバリオーネが制作したというジェズ聖堂の祭壇画は、17世紀末に撤去され行方不明になっています。
裁判にまでなったバリオーネとの仲。先ほどサリーニ(マオ)の時と同じく、カラヴァッジョの気持ちも分からないでもないです。
自分の画風を真似されただけではなく、こんな経緯もあったのです。
カラヴァッジョは、ジェスティニアーニ候に《勝ち誇るアモル》という絵を描きました。
その後、バリオーネはそのジェスティニアーニ候に《天上の愛》という絵を献上し、金の首飾りをもらっているのです。これは完全に《勝ち誇るアモル》に対抗して描かれたものです。
明暗の効果や、細部の描写が似ているだけではなく、”アモル”に対して”天上の愛”が勝っているという構図は、喧嘩を売ってるとしか考えらません。
自分の様式を真似、自分のパトロンにも接近したバリオーネを、カラヴァッジョが軽蔑し、憎んだのも無理はないと言えるでしょう。
この「バリオーネ裁判」には後日談があり、11月16日に、ロンギが、ミサに出ていたバリオーネとサリーニを、教会の外やサリーニの家の入り口で剣を抜いて脅す、という事件を起こしています。
ロンギは逮捕、拘留された後、有罪となり、自宅軟禁を命ぜられています。
1604年4月23日頃 オステリーア・デル・モーロ(居酒屋)の給仕、ピエトロ・ダ・フォザッチャからの訴え
カラヴァッジョは夜12時、仲間2人とともにオステリーアを訪れ、カルチョーフィ(アーティチョーク)を8皿注文した。
ピエトロが出来上がった料理を運ぶと、「どれがバターで料理したもので、どれが油で料理したものなのか」と聞いてきたので、「匂いをかいでみれば分かるでしょう」と答えた。
すると、カラヴァッジョは激怒し、何も言わずにカルチョーフィの皿をピエトロの顔めがけて投げつけ、軽い怪我をさせたうえに、仲間の剣に手をかけて脅した。
これに対して、店に居合わせたピエトロ・アントーニオは違う証言をしている。
カラヴァッジョは、ピエトロが匂いをかごうと更に鼻を近づけたのに気分を害し、悪口を吐いて皿を投げつけた。ただし、剣には手をかけていない。
これでカラヴァッジョは有罪になりますが、刑罰の詳細は分かっていません。
ちなみにこのアーティチョーク、イタリアでは春の食べ物として人気の高いものです。日本で言ったら菜の花を食べて春を感じる…みたいな感じでしょうか。
1604年10月17日 警察への暴行事件
ピエトロ・パオロ・マルテッリとオッタヴィアーノ・ガブリエッリとともに、警察に石を投げ、暴言を吐いたとして逮捕され、トル・ディ・ノーナに収監された。
近くにいた香水屋アレッサンドロ・トンティも調べられたが、それぞれの供述には微妙な食い違いがある。
<カラヴァッジョの証言>
ロンギたちと歩いているときに、娼婦メニカ・カルヴィと出会ったので、立ち話をしていた。その時に石が投げられる音を聞いたが、警官を侮辱する言葉などを吐いていない。
結構驚きなのが、一緒に逮捕されたピエトロ・パオロ・マルテッリという人物は、教皇とアルドブランディーニ枢機卿の使者を務めている人。使者とはいえ、教皇に仕えている人が逮捕されるというのは、当時のローマは、結構荒れていたのかもしれません。
この事件の1カ月前ほどに、カラヴァッジョの素晴らしい作品が、サンタ・マリア・イン・ヴァリチェッラ聖堂ヴィットリーチェ礼拝堂に設置されています。
この後2件連続で、武器の携帯許可証に関連した事件です。
1604年11月17日? 警官への暴言
夜11時ごろ、剣と短剣を持っていたので、警官に剣の携帯許可証の提示を求められた。
カラヴァッジョが許可書を提示したので、警官が了解し「おやすみなさい」と言うと、「ティ・オ・イン・クーロ(”ざまあみろ、ばか野郎”といった意味)などと、侮辱する言葉を吐き、逮捕された。
1605年5月28日 武器の携帯許可証の不所持
剣と短剣を持っていたので許可証の提示を求められたが、持っていなかったので捕らえられた。
翌日の取調べで、許可証は持っていないが、ゴヴェルナトーレ(司法に関する役職)から口頭で許可を得ていると主張。
その日のうちに、罰金を払うことなく釈放される。
1605年7月19日 ラウラおよびイザベッラ・デッラ・ヴァッキアからの訴え
ラウラ、イザベッラ・デッラ・ヴァッキアの家の扉と正面に損害を与えた年て、トル・ディ・ノーナに収監された。
ここまで、他に比べると些細な事件3件続けました。
1605年7月29日 マリアーノ・パスクワローニ・ディ・アックンモーリからの訴え
公証人であるパスクワローニが、夜9時ごろに、教皇庁の書記ガレアッツォ・ロッカセッカとナヴォナ広場を歩いていると、後ろから剣の一撃を受けて頭を負傷。地面に倒れた。
攻撃した者の姿は見えなかったが、カラヴァッジョ以外に考えられない。
というのが、カラヴァッジョとは、幾日か前の夕方、レナという女性のことで口論したからだと言う。
カラヴァッジョは8月頃、ジェノヴァに逃亡したようです。
その後、カラヴァッジョのパトロンでもあるボルゲーゼ枢機卿の調停により和解が進み、8月24日にはローマに戻ったようでした。
8月27日、カラヴァッジョは侮辱されたため、武器を持たない相手を襲ったことを認め、パスクワローニに許しを和睦を懇願、決着しました。
この和解調停のお礼に、ボルゲーゼ枢機卿に贈ったと思われるのがこの《執筆の聖ヒエロニムス》です。
実はこの頃、カラヴァッジョは家を借りていたのですが、ジェノヴァに逃亡している間に、家主プルデンツィア・ブルーニによって、滞納していた6か月分の家賃と天井の破損の賠償として、家財の差押えを申請されてしまいます。
それで起きたのが…
1605年9月1日 家主プルデンツィア・ブルーニからの訴え
カラヴァッジョの投石により、鎧戸(ジェロジーア)が壊されたと訴えられた。
完全に腹いせによる事件…
カラヴァッジョはこの後、居候していた法律家アンドレア・ルッフェッティを通じて、家主に支払っています。よかったよかった。
1605年10月24日 カラヴァッジョの怪我
喉や左耳を負傷していたカラヴァッジョは、居候していた法律家アンドレア宅で治療を受けていた。
ゴヴェルナトーレの公証人が取調べにあたったが、それに対してカラヴァッジョは、転んで自分の剣で負傷したのだと供述。
なんらかの理由で、事件の真相を言いたくなかったカラヴァッジョは、虚偽の供述をしたのだと考えられます。
この、アンドレア・ルッフェッティ宅に居候していた際に描いた作品としては、次の作品が挙げられます。
1606年5月29日 ラヌッチョ・トマッソーニ殺人事件
教皇即位1周年の祝祭でにぎわっていた夜。カラヴァッジョ、ロンギ、ボローニャ生まれのペトローニオ・トッパと、誰かは不明の1人の計4名の男で武装して歩いていた。
サン・ロレンツォ・イン・ルチーナ広場のかどにある、トマッソーニ家の前まで来ると、ラヌッチョがカラヴァッジョたちを見て武装。すぐに4人対4人の乱闘に。
ラヌッチョ側には、兄のジョヴァン・フランチェスコ、ラヌッチョの妻の兄弟であるイニャーツィオとジョヴァン・フェデリコのジューゴリ兄弟がいた。
カラヴァッジョとラヌッチョが1対1で戦った。ラヌッチョが腿を負傷して倒れたところを、カラヴァッジョが胸に一突き。
ペトローニオと戦っていた兄のジョヴァン・フランチェスコは、ペトローニオを半殺しにしてから駆け寄ってきて、カラヴァッジョの頭に切りつけた。
おそらくその時、警官がかけつけたか何かのために、一同は四散。
ラヌッチョは家に運ばれたが死亡し、3日後にパンテオンに葬られた。
重症を負ったペテローニオは、翌日、当時外科を兼ねていた床屋に治療を受けに行く。
が、その傷の尋常でない状態から警察にあやしまれ、逮捕されてトル・ディ・ノーナに収監された。
事件の直後、カラヴァッジョは逃亡し、旧知のコロンナ家が治めるローマ近郊のザガローロ、パレストリーナ、パリアーノなどの丘陵都市に身を隠して、乱闘の傷を癒しました。
珍しくあまり目立った動きをしなかったロンギは、すぐに妻と5人の子どもを連れて、故郷のミラノに逃亡します。
この時ロンギと一緒に故郷のミラノに逃げなかったことも、カラヴァッジョがローマに来る前に、ミラノで何らかのトラブルを起こしていたのではないかと考えられる要因となっています。
乱闘の原因は、当時からパラッツォ・フィレンツェの前で行われた賭けテニス(パラコルダ)の賭け金のトラブルと言われていました。
カラヴァッジョがラヌッチョに10スクード負け、それを支払わなかったのでいざこざが起きたのだということでした。
しかし、カラヴァッジョは居候の身であっても、その前に《蛇の聖母》のための支払いを受けていて、100スクードに近い大金を持っていたいたので、わずか10スクードでこんな大きな事件になったとは考えられないところです。
この他に女性関係のもつれが原因、というのも考えられています。
トマッソーニ兄弟の方からすると、同じ界隈で武装して派手に遊んでいたカラヴァッジョやロンギを疎ましく思っていたというのもあるでしょう。
また、トマッソーニ兄弟が仕えていたアルドブランディーニ家やファルネーゼ家はローマの親スペイン勢力の代表でした。
対して、カラヴァッジョが仕えていたデル・モンテ枢機卿は親フランス勢力の中心人物だったことから、この抗争は当時のローマを二分するスペイン派とフランス派の代理戦争だったという見方もあります。
いずれにしても、原因がよく分かっていないこの事件。
カラヴァッジョに大きな転機になったことは間違いありません。
というのが、ただちにカラヴァッジョに探索の手が及んだものの捕らえられなかったことから、カラヴァッジョに対して「バンド・カピターレ」という、お尋ね者見つかり次第、誰でも当人を殺しても良い、という恐ろしい死刑布告が出されたのです。
ラヌッチョがただのチンピラではなく、ローマの有力者がバックにいたことから、深刻な事態となってしまったのです。
以降、逃亡生活のなかで、カラヴァッジョは剣を片時も離さない、常に緊張状態を強いられることになります。
因みに、ロンギは、おそらく誰にも傷つけていなかったのにも関わらず、1611年になるまでローマに戻る許しを得られませんでした。
カラヴァッジョは、最初の隠遁先である丘陵都市で、逃亡資金を稼ぐために《エマオの晩餐》などの作品を制作します。
ナポリ時代(1606~1607)
さすがにこの時期は、大きな事件を起こすこともなく過ごします。
既にカラヴァッジョの名前はイタリア中に知れ渡っており、ナポリの貴族や画家たちはカラヴァッジョを大歓迎したということです。
この時に制作した作品の中には、次のようなものがありました。
マルタ島時代(1607~1608)
ナポリで人気を博していたのに、マルタ島に渡ったカラヴァッジョ。
恐らく、マルタ騎士団に入り、騎士の称号を得たかったと望んでいたからかと思われます。
マルタ島でも数々の作品を制作します。中でも《洗礼者ヨハネの斬首》は生涯最大の作品にして傑作です。
その功績が認められ、1608年7月14日にマルタ騎士団の「恩赦の騎士」に叙せられます。
しかしそこで安定しないのがカラヴァッジョ…
1608年8月18日 マルタ島での事件
サン・ジョヴァンニ大聖堂のオルガン奏者プロスペロ・コッピーニの家の正面扉が打ち壊され、イタリア出身の騎士と修練士、計7名が剣と拳銃で乱闘。
カラヴァッジョと聖堂の司祭だったジョヴァンニ・ピエトロ・デル・ポンテが逮捕され、サンタンジェロ要塞に収監された。
他の乱闘に加わった人たちは禁固刑。
カラヴァッジョとジョヴァンニは、最終的に騎士団から除名、追放処分を受けた。
最終処分を受ける前の10月6日、カラヴァッジョは要塞から脱獄します。
とうてい一人では脱獄できない所だったので、誰かしらの手引きがあってこその脱獄だったかと考えられています。
またもやカラヴァッジョは、騎士団からの報復におびえながら逃亡生活を送ることになったのです。
シチリア島シラクーザ/メッシーナ時代(1608-1609)
最初に逃亡してきたのは、シチリア島シラクーザでした。
そこにはなんと、あのマリオ・ミンニーティがいたので、ミンニーティの元に身を寄せます。
ミンニーティの斡旋により、カラヴァッジョは《聖ルチアの埋葬》の制作仕事を得ます。
恐らくミンニーティの手引きで、メッシーナにも滞在します。
そこでも《ラザロの復活》や《羊飼いの礼拝》などを制作しました。
1608年 教師への暴行事件
文法教師ドン・カルロ・ペペが生徒たちを引率して造船場へ来たところ、児童たちが戯れているのをカラヴァッジョがじっと見ていた。
不審に思ったペペが、カラヴァッジョに「なぜずっと見ているのか」と尋ねると、カラヴァッジョは腹を立てて剣を抜き、ペペの頭を傷つけた。
これは正確な史料が残っているわけではなく、スジンノによるカラヴァッジョ伝に記載されている内容です。
スジンノは、これによりカラヴァッジョはメッシーナを離れざるを得なくなったと伝えています。
ナポリ時代再び(1609~1610)
おそらくパレルモを経由してナポリに戻ってきます。
1609年 カラヴァッジョ襲撃事件
ある晩、有名なオステリーア・デル・チェッリーリオを出たカラヴァッジョは、待ち伏せしていた4人の刺客に襲われ、顔にひどい傷を負った。
こちらも正確な犯罪資料が残っていません。
が、10月24日にローマで「ナポリからの情報によると、著名な画家カラヴァッジョが殺害された。他の情報では、顔を傷つけられた」という報が伝えられています。
この事件が偶発的な喧嘩ではなく、待ち伏せされていたことから計画的な犯行だったことがうかがえます。
しかし、誰がなぜ襲ったのか、殺害するつもりだったのかなど、事件の核心は分かっていません。
一般的には、マルタ騎士団の事件に関連する報復だったと見られています。
その頃、制作された作品に《聖ウルスラの殉教》や《聖ペテロの否認》があります。
また同じ時期に、非常に自虐的な《ゴリアテの首を持つダヴィデ》も制作しています。
なんとゴリアテの首は、カラヴァッジョ自身だということです!
逃亡生活の果ての絶望感が見られるというと、考えすぎでしょうか…
ローマへの道中での死(1610)
7月初頭、カラヴァッジョは殺人に関する恩赦を求め、船でローマへ向かうことにします。
1610年 海岸パーロでの逮捕
フェルーカ船でローマに向かっていたカラヴァッジョは、ローマから40キロほど西の海岸パーロで、カピターノ(守護隊長)によって逮捕、拘留されたが、保釈金を払って釈放された。
なぜ逮捕されたのか分かっていませんが、この後カラヴァッジョはパーロから約100キロ北のポルト・エルコレに移動しています。この移動手段も分かっていません。
おそらく、逮捕されている間にカラヴァッジョの荷物を載せたまま船は出航。
その荷物の中には、恩赦のために贈ろうとしていた絵画が入っていたため、船の次の寄港地であるポルト・エルコレに移動したのだろうと思われます。
カラヴァッジョが所持していた作品は、《マグダラのマリア》と2点の《洗礼者ヨハネ》だっと伝えられており、その1つがこの《洗礼者ヨハネ》だったようです。
ポルト・エルコレにて熱病で倒れたことから、もしかしたら暑い夏の日差しの中、歩いてポルト・エルコレに、向かったのかもしれません。
熱病で倒れたカラヴァッジョは、7月18日にサンタ・マリア・アウジリアトリーチェ病院にて、38歳10カ月の生涯を閉じたのでした。
惜しくも、ローマではカラヴァッジョの恩赦に向けて動いているところでした。
おわりに
その多くの犯罪記録から破天荒と思われるカラヴァッジョ。
しかし調べてみると、カラヴァッジョが特殊だったというよりは、当時のローマが、芸術家をはじめとして多くの人々が集中し、秩序があまり整っていなかったようにも見えます。
(ロンギという悪友と一緒だったのも問題ありだったのかもしれませんが…)
また偏屈者ととらえられそうなカラヴァッジョですが、ピンチの時には実に多くの人に助けられています。
殺人を犯した時ですら、匿ってくれるパトロン、友人たちがいました。
その才能が惚れられていたのかもしれませんが、匿っていることがばれた時のリスクを考えると、それだけではなく、人柄も惹きつけられるところがあったのではないかと思われます。
また犯罪歴を中心に作品を見ていくと、犯罪件数の多かったローマ時代においては作品は生き生きとしており、犯罪を重ねているとはいえ、生命力にあふれていたように見えます。
対して、逃亡生活中に描かれた作品は雰囲気が異なり、どこか沈鬱なおもむきが感じられます。
最後の《洗礼者ヨハネ》も、以前に描かれたものと描かれている人物の年齢は近そうですが、表情が暗く沈んでいるように見えます。
犯罪歴と重ねるからうがった見方をしてしまうのかもしれませんが…
と、ちょっと変わった角度から見たカラヴァッジョ、お楽しみいただけたでしょうか?
犯罪歴という、あまり誇れないものではありますが、カラヴァッジョの姿が生き生きと見えてきたように思います。
ここまで長い間、お付き合いありがとうございました!
参考文献
参考文献のなかで、特に面白かった本の紹介です。
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『カラヴァッジョへの旅 天才画家の光と闇』宮下規矩朗
カラヴァッジョの生涯をたどった1冊ですが、タイトルの通り、実際の地に筆者が訪れたうえで、その土地の空気感をかも書かれているので、カラヴァッジョがさらに身近に感じられました。
図版はほぼ白黒なので、カラーの作品集などを一緒に用意して読むといいかも。
『カラヴァッジョの秘密』 コンスタンティーノ・ドラッツィオ
先述の『カラヴァッジョへの旅』よりも詳細な生涯が書かれているわけではないけれども、この時代のローマがどんな感じだったのか丹念に解説されているのが、理解を深める大きな手助けとなってくれます。
宮下氏とは異なる見解も書かれていて(特に《マタイの召命》)、一緒に読むと更に興味深いかも。
『カラヴァッジョ伝記集』 石鍋真澄編訳
カラヴァッジョ研究で重要となるカラヴァッジョ伝の翻訳本。
「カラヴァッジョ犯科帳」というタイトルで、犯罪歴も書かれているのもポイント(大変参考にさせていただきました)。
翻訳もすごく分かりやすくて、読み物としてもいいかも。
特に、「バリオーネ裁判」の発端となった”卑猥な詩”が面白かったです(笑)
『イラストで読む奇想の画家たち』 杉全美帆子
個人的に、なんでも安易に”奇想”というのは「なんだかな…」と思ってしまうくちだけれども、非常に楽しく読める本でした。
イラストばかりといって侮るなかれ。書かれている内容は、結構マニアックなところまで書かれていると思います。しかも各画家への愛をしっかり感じられるのが素敵。
この記事に掲載している絵は、基本的には収蔵されている美術館のホームページより、そのガイドラインにのっとってダウンロード&掲載しています。
ただし、場所によってはネットに載せていないところもあり(ものによってはサイト自体がないところも…)、その場合はパブリックドメインであるということから、Wikipediaや”Web Gallery of Art“というサイトから借用しました。
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