私が美術史や芸術学に興味をもつきっかけになった本を紹介したいと思います。
この本を読んで、考え方ががらっと変わったと言っても過言ではないくらい、眼から鱗の本でした。
それは…高階秀爾著「日本美術を見る眼」です!
これを読む前から日本美術は好きでした。
でもどこかで西洋美術は”完成された美”という意識がありました。
例えば…
この二つを並べると、西洋絵画であるBronzinoの絵の方がリアリティあふれて「完成された」絵に見えないですか?
ところが!この本を読んで、そもそも日本美術は”リアリティ”の考え方が異なっていたということが分かったのです。
つまり、西洋絵画では2次元の中に3次元の世界を構成してリアリティを出そうとしているのに対して、日本美術は2次元は2次元として捉えていた、例えば紙であれば”紙”という現実を見ていたというのです。
おそらく、多くの日本人がありがちの”西洋の方が日本より上”という意識が、がっつり刷り込まれてしまっていた私にとって、
「そもそも日本人が古来持っていた美意識は、ヨーロッパ(ギリシャ)で持たれていたものと全く異なるし、したがって表現の方向性がまったく異なる」
ということは非常に衝撃的だったのです。
芸術や美術は、1つの正しい答えを持っているわけではなく、それぞれがそれぞれの観点で優れていて優劣つけれるものではない、ということは、それまでも何となく理解しているつもりでした。
でも、それは完全に頭での理解のみで、それが論理的に説明されている本書を読んで初めて、すとんと腹落ちしたのでした。
ということで是非、皆さんにも読んでいただきたいです!
高階秀爾先生は、もともとは西洋美術を研究分野とされており、おそらくそれ故に日本美術の特質が明確化されたのだと思われます。
とにかくこれを読むと、日本美術のことはもちろん、他の美術の文化的背景へも興味がわくと思います!
本書の面白さを更にお伝えするために、第1話目にあたる「日本美の個性」のさわり部分をご紹介したいと思います。
まず大野晋の『日本語の年輪』に書かれている「うつくしい」という日本語が何を意味していたのかを確認します;
- 今使われている「美しい」の語源となった「うつくし」は、万葉の時代には「美」を意味せずに、親や妻子に対する愛情を表す言葉であった
- 今の「美しい」にあたる言葉は、奈良時代は「くはし」、今の「詳し」に繋がる言葉で、こまかい・微細な、という意味であった
- 平安時代においての「美しい」にあたる言葉は「きよし」で、現代の「清し」に残るように、汚れのない・くもりのないという意味である
ここから日本人の美意識は、以下のように言えると考えます
- 「うつくし」が元々愛情表現を意味する言葉だったということから、情緒的・心情的である
- 「くはし」「きよし」に見られるように、「小さなもの」「清浄なもの」に「美」を感じていた
この2に関して、西欧の美意識の根源となるギリシャとはまったく逆で、ギリシャでは「美」は「力強いもの」「豊かなもの」に結び付いていました。
つまり、日本と西洋は美意識において、まったく逆方向のベクトルに向かっていたと言えるでしょう。
日本人の美意識が「心情的」で、「小さなもの」「清浄のもの」に美を感じていた、ということをもう少し深堀していきます。
「心情の美学」
西洋において、「美」は数学や幾何学、力学など合理的なものに結び付いていました。
黄金比などが典型的と言えるでしょう。
しかし日本人の美意識は、そういった合理的なものに結び付けるという方向にはいきませんでした。
「もののあわれ」につながる、きわめて心情的なもので、つまり「美」は対象のある特殊な性質ではなかったのです。
そうなると対象が特定されず、山川草木、森羅万象あらゆるものが「美」の対象となり、それは不完全なものに対しての「美」に繋がります。
『徒然草』でも「花はさかりに、月はくまなきをのみ見るものかは」(花は満開の時のみを、月は雲がないもののみを見るべきなのか、いやそうではない)とある通り、不完全な美・欠如の美という独特の美意識が育まれたのです。
「小さなもの」に対する好み
「縮小されたもの」に対する強い好みへと繋がり、「洛中洛外図」がこれの良い例となるでしょう(無料で使える画像がなかったので、Wikipediaを参考にしてください)。
建物や人がひしめきあっているこの屛風は、一見、西洋絵画でも見られる鳥瞰図のようにも見えます。
しかし、西洋絵画と大きく違うのは、建物の描写に遠近法が使われておらず、人物もあきらかに上から見た人物像ではありません。
これは「洛中洛外図」は鳥瞰図ではなく、”縮小された図”であるからです。
つまり、西洋絵画の鳥瞰図のように1点から見下ろしている図ではなく、連綿と続く、いわゆるパノラマ風景を縮小させた図なのです。
したがって人物の描写が非常に緻密で、着物の柄まで見えるくらいです。
因みに「小さいもの」「縮小されたもの」への好みは、他にも色々なところで見られます。
盆栽もそうですし、今でも苔テラリウムが流行ったりしてますよね。
マスコットやキャラクターが好まれるのも、小さくて愛らしいものが好きな特性の表れかもしれません。
「清浄のもの」に対する好み
前述通り「きよし」は汚れやくもりのない状態を表します。
これは、西洋における美意識の根底にある「何か良いもの、豊かなものがある」という積極的な状態とは対照的で、「よけいなもの、うとましいものがない」という消極的な状態とも言えるでしょう。
「否定の美学」ともいえるもので、わび・さびへと繋がります。
秀吉が朝顔の花を見たいと言ってやってきた時に、千利休が庭の朝顔を全部捨てさせて、一輪だけ飾ったというエピソードは究極の「否定の美学」と言えるでしょう。
能も、舞台装置や動きを極限まで削ぎ落した舞台芸術で、こちらも「否定の美学」から成り立っていると考えられます。
しばしば日本の美術において、背景がまったくない絵画を見かけます。
例えば尾形光琳の《八橋図屛風》は、背景が金地で、例えば燕子花がどう植わっているのかなど、背景となる情報が全くない状態です。
装飾的とも言えますが、これこそが対象物のみを描き、余計な物は削ぎ落すという「否定の美学」に則ったものなのです。
いかがでしょう?
「わび・さび」であったり、装飾美であったり、これまでも日本人の美意識は何となく知っていたり、感じていたところもあったと思います。
それが、”美しい”という言葉から見られる「美」に対する感性、そしてそれが体現されている美術作品によって、より具体的に日本人の美意識が分かってきたのではないでしょうか?
本書はこれだけではなく、様々な気付きを提供してくれるので、本当におすすめです!
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