幸せ絶頂期の自画像?:レンブラント《34歳の自画像》

レンブラントといえば、自画像をたくさん残した画家です。
今回は、その中でも34歳の時に描いた自画像をとりあげたいと思います。

この絵の概要

レンブラント《34歳の自画像》 1640年 油彩/キャンバス 91 × 75 cm ナショナル・ギャラリー蔵

この肖像画はロンドンのナショナル・ギャラリーが所蔵している作品です。
タイトルが示す通り、レンブラントが34歳の時の自画像です。

欄干のようなものに右腕をかけ、こちらを見ています。
キャンバスの上部が丸くなっているのもあって、窓からこちらを見ているようにも見えますが、実は、このキャンバスの形は後から何らかの理由で形成されたものなので、レンブラントの意図ではなかったようです。

帽子をかぶり、大きく膨らんだ袖に、毛皮のついた上着を着ていますが、この衣装は当時の日常的に着られていた服とは異なり、おそらくレンブラントが絵を描くためにコレクションしていた衣装なのではないかと思われます。
今でいうとコスプレといったところでしょうか。

なぜこのような衣装を着て自画像を描いたのでしょうか?
この自画像が描かれた背景を見ていきましょう。

34歳の時のレンブラント

まずレンブラントにとって34歳は、どんな時期だったのかを見てみましょう。

レンブラントこと、レンブラント・ハルメンスゾーン・ファン・レインは1606年にオランダのライデンというところで生まれました。
父親が製粉業を営む中流階級の、8番目の子供でした。
上の兄弟が製粉業に就くなか、法律家になってほしいという親の希望からライデン大学に進学しますが、わずか数カ月で退学、画家の道を目指します。

この自画像が描かれた1640年、34歳のレンブラントはどんな感じだったかというと…

既に故郷のライデンを出て、アムステルダムに来てから10年が経っていました。
そしてアムステルダムで名声を得て、成功者といってもいいくらいでした。

しかも、サスキアという裕福な娘と結婚もしていました(1634年)。
この結婚により、巨額の持参金を得ることができたばかりか、彼女の縁故によって、富裕層の顧客までゲットしていたのです。

この頃、弟子の数が50人を超えていたという記録が残ることからも、いかにレンブラントが名声を得ていたのか分かるでしょう。

また1640年というと、あの傑作、《夜警》が描かれる2年前なので、芸術面においても成熟の域に達していると言ってもいいでしょう。

それはレンブラントも自負していたようで、それはこの《34歳の自画像》のサインでうかがえます。
それまで、レンブラントは自分の絵にサインをする時には、故郷のライデンや、苗字のハルメンスゾーンを含めて「RHLファン・レイン」や「RHL」「RL」といったサインでした。
それが《34歳の自画像》では「レンブラント」と名前のみになっています。
これはティツィアーノやラファエロといった、ルネッサンスのイタリアの巨匠たちに倣ってのことで、自分こそがイタリア・ルネッサンスの後継者だという気概が感じられます。

レンブラント《夜警》1642年 油彩/キャンバス 363 x 437cm アムステルダム国立美術館蔵

最後に少しだけ、この後のレンブラントについて。
1642年にサスキアが病のために亡くなります。
そこからレンブラントの転落が始まるのです…
レンブラントの目指す芸術性と、顧客が求める絵画がマッチせず絵の依頼が減り、それなのにレンブラントの浪費癖はおさまらず、家を売却することになったり…
サスキアの遺書のため、再婚できないレンブラントは愛人関係でトラブルが起きたり…
子どもに先立たれたり…
晩年は無一文になり、質素な生活の中、息を引き取ります。

ということを知ったうえで、この《34歳の自画像》を見ると感慨深いものがあります。

影響を受けた作品

レンブラントはイタリア・ルネッサンスの作品の研究熱心でした。
特にヴェネツィア派といわれるティツィアーノの影響を大きく受けていました。

が…実はレンブラント、当時の画家としても珍しく、1回もイタリアに行ったことがないんです!

ではなぜ、イタリア・ルネッサンス作品の研究ができていたかというと、当時のアムステルダムは美術市場の中心地だったのです。
そのため、イタリア・ルネッサンス作品がたくさん、アムステルダムに集まっており、レンブラントはイタリアに行くことなく、本物の作品に触れることができたのです。

実際、この《34歳の自画像》も、アムステルダムで競売にかけられていた、2つの作品の影響が色濃く表れています。

それが、ティツィアーノによる、通称《アリオストの肖像》と

ティツィアーノ《アリオストの肖像》1510頃 油彩/キャンバス 81.2 x 66.3 cm ナショナル・ギャラリー蔵

ラファエロによる《バルダッサーレ・カスティリオーネの肖像》です。

ラファエロ《バルダッサーレ・カスティリオーネの肖像》1514-1515年 油彩/キャンバス 82 x 67 cm ルーブル美術館蔵

これらの作品は1639年にアムステルダムで競売にかけられたという記録が残っています。
レンブラントがこの2つの作品を見たのは間違いなく、実際、《バルダッサーレ・カスティリオーネの肖像》に関しては、スケッチが残っています(右図)。
ちなみにこのスケッチには、売られた値段まで書いてあるそうです!

1639年に、この2つをミックスしたような自画像のエッチングも残しています。

レンブラント 1639年 エッチング/紙 20.7 x 16.4cm 大英博物館蔵

帽子と体の向きはラファエロから、袖の大きな服と肘を乗せるというポーズはティツィアーノから学んでいることが分かります。

《34歳の自画像》はまさにこの絵の進化版と言えるもので、体の向きや帽子が変わっていますが、ベースとなる部分は変わっていません。

3つ並べてみると、2つのそれぞれのエッセンスを取ってきていることがよく分かりますね。

といっても、レンブラントはただ巨匠たちの作品をなぞっているわけではありません。
イタリア・ルネッサンスの作品は人物を理想化して描かれているのに対して、レンブラントはありのままの姿を描いています。
実物を見るとよく分かるのですが、目元のしわや、丸っぽい鼻など、忠実に再現した跡が見られます。
巨匠たちの作品から学びつつ、自分の芸術として昇華したと言えるでしょう。
だからこそ、ルネッサンスの後継者という自負を得られたのでしょうね。

参考文献など

パスカル・ボナフー、高階秀爾監修『レンブラント』、村上尚子訳、創元社、2001年

ケネス・クラーク『レンブラントとイタリア・ルネサンス』、尾崎彰宏・芳野明訳、法政大学出版局、1992年

英語ですが、ナショナル・ギャラリーのHPで、この作品の解説のYouTube動画があがっています⇓

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