ルネサンスの三大巨匠といえば、言わずと知れたレオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、そしてラファエロではないでしょうか?
でも正直、ダ・ヴィンチやミケランジェロといったら《モナリザ》とかシスティーナ礼拝堂の天井画などなど、作品のイメージがすっとわいてくるのに、ラファエロと聞いてもあんまり思いつかなかったりしませんか?
もしくは、ダ・ヴィンチやミケランジェロの作品を見たときに、「さすが巨匠!」と感じるのに、ラファエロの作品だと「ふーん…」ってなりませんか?
なんというか…もちろんすごい上手なことは上手だけど、ダ・ヴィンチやミケランジェロと並び称されるほどのものなのか…?みたいな。パンチがないと言うのでしょうか。
私は失礼ながらも、そう感じてしまいます。
となると逆に、”なんでルネサンスの巨匠として名を連ねているのか”興味がわいてきたので調べてみました!
この記事では、ラファエロの生涯を見ていきます。
※各図版の出展元は末尾に掲載します。図タイトル後の()内文字は末尾記載の出展元を示すものです。
最初期:1483年~1503年(0歳~20歳)
ラファエロは1483年3月28日(もしくは4月6日)に、ウルビーノという町で生まれました。
当時のイタリアは、今のように1つの国家として統一されておらず、各地に様々な都市国家が存在していました。
代表的なものでいうと北部にはミラノ公国、ヴェネツィア共和国、中部にはフィレンツェ共和国、中南部にはローマ教皇領がありました。
ラファエロが生まれたウルビーノは、元傭兵隊長だったモンテフェルトロ公が統べる小都市でした。
ラファエロの父親は、そのウルビーノ公のもとで宮廷画家を生業にしていました。
では、ラファエロは父親から絵の手ほどきを受けていたのか?というと実はそうではなく…
というのが、ラファエロが11歳の時に父親が他界してしまうのです。
(ちなみに母親は8歳の時に亡くなっています)
ラファエロは誰に弟子入りしたのでしょうか?
ラファエロの伝記を書いたヴァザーリは、その著書『美術家列伝』に「父親は自分の息子の才能に驚き、当時評判高かったペルジーノ(1448頃-1523)に懇願して弟子入りさせた」ということを書いています。
しかし他にそれを裏付ける史料もなく、11歳以前に弟子入りさせるのは当時の基準においてもかなり早いのもあり、現在は信憑性が低いと考えられています。
結局、誰に弟子入りしたのか明確な記録は残っておらず、画家としての活動を示す最初の記録は1500年、ラファエロが17歳の時の記録です。
その記録というのが、チッタ・ディ・カステッロという都市の商人が注文した祭壇画に関する契約文書なのですが、そこには「マエストロ」という肩書を添えてラファエロの名前が載っているのです。
つまり、17歳の時点で「マエストロ」、つまり正式な画家としてラファエロは認められていたのです!
残念ながらその祭壇画は地震にみまわれ、今は断片が各地に散らばっています。その一部がこちらです↓
ペルジーノへ弟子入りしたという確証はないとは言えども、交流があったことは間違いなく、当時のラファエロの画風はペルジーノにそっくりでした。
またペルジーノとの共作も残っています。
この当時の作品の例として次の通り、挙げられます。
フィレンツェ時代:1504年~1507年(21歳~24歳)
それまでも何度かフィレンツェには訪れていたと推測されていますが、おそらく1504年頃、フィレンツェに居を構えたと考えられています。
フィレンツェといえば、ルネサンスの本拠地です。
繊維業から始まり、金融業で莫大な富を得たフィレンツェは、ヨーロッパ随一の経済国でした。
その富を背景にルネサンスが花開いたのです。
ラファエロがフィレンツェに移り住んだ1504年は、円熟期を迎えていました。
ルネサンスを支えたメディチ家は既に追放されており、斜陽を迎えていたとも言えます。
そして…何よりも重要なのが、フィレンツェが生んだ巨匠、レオナルド・ダ・ヴィンチとミケランジェロがフィレンツェに帰ってきていたということです!!!
故郷ウルビーノとはまったく異なった芸術、しかも最先端の芸術に触れて、ラファエロは大いに驚いたに違いありません。
実際、このフィレンツェ時代に画風が大きく変わっていくのです。
その背景には、レオナルド・ダ・ヴィンチとミケランジェロの存在は無視できません。
おりしも、ミケランジェロはかの有名な《ダヴィデ》像を完成させたところですし、大評議会広間の壁画をダ・ヴィンチとミケランジェロに描かせて競作させようと盛り上がっていました(この壁画は結局どちらも完成させませんでした)。
ラファエロはダ・ヴィンチとミケランジェロ、両方ともと交友関係にあったようで、特にダ・ヴィンチはラファエロを気に入り、未完成の作品などを見せたりしていたようです。
お仕事はというと…フィレンツェにとっては、ラファエロは地方出身の新参者。
公的な大きな仕事は入ってこず、貴族など富裕層からのプライベートな注文ばかりだったので、小さな作品が多いです。
とは言っても、この作品群の中には、後世においてラファエロの代表作となる作品も含まれており、この時代にラファエロの芸術が花開いたのが分かります。
ローマ時代:1508年~1520年(25歳~37歳)
教皇ユリウスII世の時代
1508年の秋、ようやくフィレンツェで大きな祭壇画の注文が舞い降りてきたのに、それの途中で投げ出しフィレンツェを去ります。
それもそのはず。教皇ユリウスII世よりローマへ招聘されたのです。
当時のローマは建築ラッシュでした。
少し時代は遡りますが…15世紀半ば頃のローマは、ローマ帝国の繁栄はいずこ…小都市に成り下がっていました。
それが1500年の大聖年を迎えるのにあたって、ローマ再建整備が進められ、各地から建築家が呼ばれていました。
そしてラファエロがローマに呼ばれた頃、サンピエトロ大聖堂とヴァチカン宮殿の大改修が、ようやく本格化するところでした。
この大改修の中心人物はブラマンテ(1444頃-1514)だったのですが、彼はラファエロと同郷で遠縁にあたりました。
このブラマンテの推薦によりラファエロが招聘されたようです。
当時の教皇ユリウスII世は、ライバルである前任の教皇、アレクサンデルXI世の肖像を見たくないがために、上の階を自分の居室にしました。
そこのスタンツァ(諸間)を装飾するために、ラファエロが呼ばれたというわけです。
ラファエロが最初に依頼されたのは「署名の間」の壁面一面、《聖体の論議》でした。
この出来栄えに満足した教皇は、他の壁面もラファエロに任されることにします。
こうして華々しいデビューを果たしたのでした!
因みに次に描かれたのが、あの有名な《アテネの学堂》です。
一躍有名になったラファエロは、ローマのパトロンたちを虜にします。
ミケランジェロを別にすれば、並ぶ者はいないとばかりの名声を得るのです。
この頃の代表作として次のものが挙げられでしょう。
教皇レオX世の時代
ユリウスII世は自ら戦場に赴くくらい好戦的な教皇だったのに対して(今の感覚では教皇が戦争に行くイメージがわきませんが…)、その死後教皇になったレオX世は平和を愛し、学問芸術を擁護するような人だったので、ローマにルネサンス文化が開花しました。
ラファエロと気が合ったようで、レオX世のもと、ラファエロはますます活躍します。
1514年にブラマンテが亡くなると、サンピエトロ大聖堂の主任建築家に就任します。
もっとも建築の経験がなかったラファエロは、何人か建築家を補佐としてつけてもらっていました。とはいっても大変名誉であることは間違いありません。
更に1515年、古代美術監督官にも任ぜられます。
当時、新サンピエトロ大聖堂建設のため、古代ローマ遺跡から大理石・石材が持ち出されていました。
これでは古代遺跡が破壊されてしまう、と危機感を募らせたラファエロは、古代遺跡の保存に関する書簡を教皇へ提出したり、古代遺跡の地図を製作しようとしていました。
この試みは、ラファエロの死によって頓挫してしまうのですが、古代遺跡の研究成果として「グロテスク(グロッタ風)模様」を流行らせたのもラファエロでした。
こちら↓が、ラファエロが蘇らせた古代遺跡で使われていた模様、グロテスク模様です。
(もともと「グロッタ(洞窟)」で使われていた模様だったので”グロッタ風の”という意味で「グロテスク」という言葉になりました。今”奇怪な”という意味で使われている「グロテスク」の語源でもあります)
これは広くヨーロッパで使われるようになり、装飾史において非常に意義深いものになっています。
このようにして、古代芸術に造詣が深くなっていったラファエロ。
宮廷画家として大活躍なわけですから、一流の学者たちと親密に交流もします。
こうして確かな知識に裏うちされた芸術をもって、古典主義を達成させたのでした。
つまり、古代ギリシャ・ローマの芸術を様式という面でも、意味内容という面でもしっかり把握し、それを芸術に昇華させることで復興させたのです。
そんなこんなで大人気のラファエロ。めちゃくちゃ忙しいわけです。
当たり前のことながら、自分一人で絵を描くなんてとうていできません。
ユリウスII世の頃ではありますが、工房をたてて分業制を敷くことになりました。
工房自体は特に目新しいことではなく、当時は普通のことでした。
他と違っていたことは、工房を担うメンバーです。
通常、徒弟制ということで、弟子が勉強しながら親方のもとで仕事を手伝う、という形を取っていました。
が、ラファエロの工房では、徒弟ではなく、既に技術を修得した一人前の画家が制作に参加する、いわば共同制作者のチームだったのです。
そして、それぞれが得意なものを描くという、分業制でもありました。
例えばこちら↓の絵。楽器郡は楽器や動植物が得意なジョヴァンニ・ダ・ヴーディネ(1487-1564)が描いています。
晩年になればなるほど、ラファエロの手が少なくなってくるのですが、こちらの作品は珍しく、ほぼラファエロが描いた作品となります↓
一人で描いた背景には、注文者である枢機卿が、セバスティアーノ・デル・ピオンボ(1485頃-1547)にも注文し競作させようとしていたことが挙げられます(ピオンボは《ラザロの蘇生》を描いています)。なんとピオンボの後ろには、ラファエロのことを快く思っていないミケランジェロがおり、ピオンボに図案を渡していたのです。そうなるとミケランジェロとの対決とも言えるので、ラファエロも真剣勝負です。
そんなわけで珍しくほぼ一人で仕上げたこの作品…遺作となってしまいます…
1520年4月6日、高熱にうなされたあげく突然、この世を去ってしまったのです。37歳でした。
おわりに
37歳という若い歳で亡くなったラファエロ。しかしその作品や功績を見ると、とても20年の画業のなかで為したものだと思えません。
おそらく、天才がゆえに変人なダ・ヴィンチや難しい性格のミケランジェロに比べて、ラファエロは皆に愛される性格だったのでしょう。
それがあの優雅な聖母子像に表れているようです。
皆に好かれ、愛されるラファエロ…だから後世の人間からすると(つまり私)、ちょっと物足りなく感じるのかもしれません。。。
とは言うものの、あの時代に遺跡保護のために奔走していたのも驚きでしたし、絵画史のうえで古典主義を達成させただけではなく、グロテスク模様を流行らせることで装飾史にも影響を与えたことには驚きです。
そして、何よりもラファエロを重要視しなくてはならないのは、ラファエロの死によってルネサンスが終ったということです。
というのが、ラファエロの死の直後、レオX世をはじめとする文化的活動の中心人物が相次いで亡くなり、更に1522年にはペストが流行し都市のあらゆる活動が停滞したのです。
こうしてラファエロの死が、ある意味、象徴的な死となったのは、それ以降、ラファエロがどう受容されていったかにも影響があると考えられるかもしれませんね。
次の記事では、ラファエロが影響を受けた画家たちと、どんな影響を受けたのか詳細を見ていきます↓
図版の出展元
a | 深田麻里亜『カラー版 ラファエロールネサンスの天才芸術家』2020年、中央公論新社 |
b | 池上英洋『アート・ビギナーズ・コレクション もっと知りたい ラファエッロ 生涯と作品』2009年、東京美術 |
c | 池上英洋監修・執筆『ラファエロの世界』2012年、新人物往来社 |
d | Web Gallery of Art, https://www.wga.hu/index.html (2022/3/25アクセス) |
参考文献の一覧はこちらから
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