祇園精舎の鐘の音:吉川英治「新・平家物語 1 」

「新・水滸伝」が未完としるやいなや、あっさり読むのを止めてしまったものの、吉川英治は読みたいままだったので、「新・平家物語」に手を出してみました。

というのは、前に読んだ、林望先生の能の話で、平家物語にまつわる演目は、観る人が「平家物語」を熟知しているのを前提に作られている、と書かれていたからです。

これまで、船弁慶やら、義経千本桜やらを、歌舞伎や文楽で見ていたのに、平家物語といえばあの有名な「祇園精舎の鐘の音~」の認識しかなかったので、じゃあ読んでみよう!ということになったのです。

この「新・平家物語」は、まあ、実際の平家物語を読んでいないので比べることはできないのですが、平清盛の幼少時代から話が始まります。この本の中では、彼は本当は白川上皇のご落胤ということになっていて、しかし不遇な幼少期を過ごします。このときの話というのが、どうにもこうにも、まどろっこしくてたまりません。というか、どうしてもどうしても清盛が好きになれないのです。なんか、ずぼらででも抜け目なくて、というのが、共感をすることができなくてしょうがない。

そのため、一巻の最初のほうは遅々として進みませんでした。でも、西行法師の話とかがなかなか良かった。

それが鳥羽法皇と美福門院との間の子供、近衛帝の未来の女御をめぐっての忠通と頼長兄弟との戦いらへんになってからが楽しくなります。

私は、ありきたりながら忠通派でした。弟の頼長ほど才に長けているわけでもなく、そして父親に疎まれているけれども、温厚で人望があるとは…。そして弟にわだかまりを持っているのにも関わらず、偏見なく頼長の幼女多子をおすなんて…。

あと好きなキャラとしては、麻鳥でした。麻鳥は新院(崇徳上皇)のそばに仕える、本当に下っ端の人です。崇徳院が上皇として退かれたのを機に、自分も楽員を退き三条西洞院の御所の水守りになるのです。そして遠くから新院を見守りつつ、最後の最後に、保元の乱にて敗れた崇徳院一向が逃げのびる中にまぎれ、崇徳院が「水を…」と言った時に、すかさず彼が守っていて、そして崇徳院が好きだった柳ノ井の水を差し出すのです。

そこの場面がすごくいい!;

こういう素朴な野の民のうちにこそ、なんの表裏も醜さもごまかしていない、きれいな一つの精神の花が、この国の四季の中には育ったのだということを―まことに遅くではあったけれど―いま初めて、ここで、お習びになった。

p310

まあ、なににしろ崇徳院がかわいそうでしょうがありません。

あと見所はやっぱり源氏の話でした。親と子が敵になってしまうのだから、そこが哀切的でした。吉川英治の言葉が、率直に伝わりました;

 まことに、保元の乱を書くことは苦しい。その時代から八世紀もへだてた今日においても、そくそくと、胸が傷んでくるのである。筆者は、その精彩も描きえないで、かえって今日の嘆息に落ち入ってしまう。
 戦そのものは、幼稚であった。戦争を遊戯しているか、芸術しているようですらある。しかし、戦争のかたちや量ではなく、戦争のもつ人間苦の内容は、今も昔もかわりはない。いや、昔のそれを、もっと拡大し、深刻化し、そして科学的進歩のうえに、今日の戦争形態としたものが、人間進化の全面ではないが、一面であることは否みえない。
 ―と、それば、かつての古き人間の戦争は、まだ、その稚気、愛すべしとはいえないまでも、人間的とはいえるかもしれない。武器、服飾にも、芸術の枠をこらし、陣前では、廉恥を重んじ、とまれ、精神的な何かを持とうとは心がけた。動物にはなるまいとしていた。

p293-294

当事の戦と現代の戦争論もおもしろいですが、平安人論も面白かったです;

 いったい、平安時代の人間は男でも女でも、よく泣いたし、またよく笑った。喜怒哀楽を、隠さなかったのである。
 神色を眉にだに示さず―という風を、人物の厚みとしたのは、もっと後生の日本人であった。儒学や武士道の影響だった。
 それ以前の、本来の国民性は、歌うにも率直、踊るにも率直。よろこぶや、大いによろこび、悲しむや、涙を流して泣き、そう人前を、気にしなかった。五情六欲の凡愚を、おたがい認めあって、生きたのであった。
 ―すでに自分たち人間の本性を、理性だけでは処理できない、官能煩悩の、あわれな、はかない、始末のわるい―宿命の子として、観ていた人びとなので、大自然の悠久にも、仏陀のことばにも、謙虚であり、素直であった。

p144

さて、二巻へGO!
(吉川英治 新・平家物語一 六興出版 昭和46年)

コメント

タイトルとURLをコピーしました